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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)東西軸のくらしと人びと

 **さん(新宮村宮川 昭和2年生まれ 66歳)
 **さん(新宮村宮川 昭和12年生まれ 55歳)
 **さん(新宮村青山 昭和8年生まれ 60歳)

 ア 信仰の道-熊野権現さんと奥之院さん

 法皇山脈に平行して、新宮村を西から東に流れる銅山川の東西軸に沿って、熊野神社と四国霊場65番札所三角寺(川之江市金田町)の奥之院仙竜寺がある。熊野神社創建の由緒については、『伊予新宮鎮座熊野神社由緒略記(①)』(神社蔵)がある。それによれば、「そもそも当社は今を去ること1,180年以前、大同2年(807年)9月18日紀伊国新宮より(現宮司の先祖らにより)、当地に勧請(かんじょう)せられたるものにして、四国第一大霊験十二社宮と奉唱されたること、聖護院(天台修験の本山派)御門跡帳面にこれあり。古くは古美(こみ)村と申すところ本社を鎮祭せしにより新宮の名あり。また曰く、伊予国は熊山、阿波は岩津限り、土佐は保木峰、讃岐はことごとく皆氏子場として熊野宮の牛王の神符を配布せり。」とある(写真2-2-1参照)。
 由緒略記に出てくる古美という地名は、かつての熊野神社境内(現在の新宮小学校)から出土した神鏡(愛媛県指定文化財)の銘が初見である。すなわち、「伊与國宇摩郡古美新宮輿御鏡十二枚之内貞應二年(1223年)三月六日信山大法主沙弥定廣(②)」とある。現在の新宮という村名もこれに基づいている。
 熊野神社がこの地に勧請されたルートについては、はっきりしたことは分かっていない。**宮司の話では、「和歌山県の新宮・本宮から田辺を経由して、徳島県の吉野川をさかのぼり、銅山川と吉野川の合流点の川口から、尾根伝いに横峰峠を経て、現在地に鎮座したものと考えられる。当時は川岸よりも尾根づたいが一番危険が少なかった。阿波筋は熊野信仰の盛んなところであり、また平家の残党も、この地域へは阿波から入ったという伝説もある。」と吉野川→横峰ルート説をとっている。
 平凡社の『愛媛県の地名(②)』では、「熊野神社の別当寺であった神宮寺に伝来する大般若経600巻(愛媛県指定重要文化財)のうち、嘉禄2年(1226年)の奥書のある大般若経に『与洲宇麻新宮石室ニテ書写畢』とあり、……神仏習合して熊野十二社権現が祀られていたとみられる。当社の祠官(しかん)が田辺氏であり、熊野別当田辺氏の一流といい紀伊国から来たと言い伝えているので、熊野新宮の勢力が強大化した平安末期から鎌倉初期にその勢力の一部が当地に及んだと考えられる。」としている。
 神社に残る棟札で一番古いものは、永禄3年(1560年)である。寛永15年(1638年)の棟札裏面には、三角寺の住持勢恵が修理した旨が記している。これによると、当時は熊野神社と三角寺との関係が深かったことを知ることができる(③)。
 いずれにしても、修験道の山である徳島県の剣山と、愛媛県の石鎚山の中間地である新宮に熊野神社や奥之院仙竜寺が存在することは、空海の修行地との関連もあり、興味深い問題を提起している。
 熊野神社の信仰圏は、由緒略記によれば、伊予国は上浮穴郡の久万山一帯、阿波国は吉野川沿いの美馬郡穴吹町まで、土佐国では香美郡土佐山田町、讃岐国は全域に及んでいた。これらの地域に熊野神社の牛王神符が、修験者らによって配布されたといわれる。現在の神域は狭められているが、別当寺である神宮寺とともに、その神域は広く、新宮村役場、中央公民館、新宮小学校も神社の境内であったといわれる。
 四国の大半を信仰圏に持っていた熊野神社も、明治以降は信仰が衰微して、村内に限られるようになった。庶民信仰として神符の御利益は、壁に貼れば盗難除け、家内安全になり、カラスを一羽切り抜いて、水に浮かべその水をいただくと病気が治るといわれてきた。また農作物を荒らすカラスの被害についても、当神社に参詣し願掛けすると被害を受けないという。事実、阿波境の上山(かみやま)の人が、そのお礼としてその年に収穫したトウモロコシを神社に供えたり、神酒を奉納している。新宮では今も、熊野さんの見える範囲ではカラスの害はないという。
 仙竜寺は新宮ダムの上流古野(この)にある。寺域には老杉・古木などの天然林が茂り、まさに霊域と呼ぶにふさわしい。境内に大伽藍(がらん)が見え、いかにも修験道の寺院を思わせるものがある(写真2-2-2参照)。
 仙竜寺は真言宗大覚寺派に属し、金光山遍照院という。本尊は弘法大師で65番札所三角寺(川之江市金田町)の奥之院であった。寺伝によると、法道の開基という。弘仁6年(815年)に空海が法道とめぐり合い、通称岩屋といわれる岩窟(がんくつ)内に息災増益の護摩壇を造り、修行した跡と伝えられている。寺には空海42歳の時の像がある。境内のすぐ横に高さ約18mの清滝があり、ここは仏道修行の場であった。
 寛永15年(1638年)京都大覚寺門跡、尊称法親王が立ち寄り、帰京の後、金光山遍照院仙龍寺の名前がつき、独立した寺となったという(②④⑤⑥)。
 弘法大師修行の地として有名で、虫除(よ)けの「作大師」、人間の「厄除大師」、「奥之院さん」などの名称で広く人々から親しまれている寺院である。今でも四国遍路の人々がバスや自家用車で参拝に来る。かつては厄年の男女が厄払いのため徒歩で土佐街道や新土佐街道を通り土佐から、香川県や瀬戸内海の島からも横峰越えで参拝にきていた。また虫送りの行事が盛んなころは、奥之院に火なわを受けに行き部落毎に火なわを通していた。現在参道になん百本と立つ旗は信者がお寺に寄進したものであるが、寄進者の名前には香川県の人のものが多く見られた。

 イ 新宮ダムの建設

 銅山川には、上流から昭和41年(1966年)完成の別子ダム、昭和28年(1953年)完成の柳瀬(やなせ)ダム、昭和50年(1975年)完成の新宮ダムが建設されており、さらに現在別子ダムと柳瀬ダムの中間に富郷(とみさと)ダムが建設中である。
 新宮ダムは水資源開発公団の管理下にあり、吉野川総合開発の一環として洪水調節を実施するとともに、早明浦(さめうら)ダム、柳瀬ダムと相まって、愛媛分水を行い、あわせて発電を行う多目的ダムである。①洪水調節:新宮地点における計画高水流量1,600m³/secのうち、400m³/secの洪水調節を行う。②かんがい用水:川之江地区の水田、果樹園に対し、かんがい期(6月6日~10月5日)に0.142m³/secのかんがい用水を供給する。③工業用水:既設の柳瀬ダムによる分水強化と、新宮ダムを利用して3.28m³/secの工業用水を愛媛県の伊予三島・川之江地区に供給する。④発電:新宮ダムからの分水を利用して、銅山川第3発電所において最大出力11,700kWの発電を行う(愛媛県営(⑦))。
 新宮ダムは、昭和42年(1967年)に水資源開発基本計画に組み入れられ建設が確定してから、8年の歳月を経て昭和50年(1975年)に完成した。ダム建設が銅山川の水だけでなく、銅山川に注ぐ馬立川にも堰(せき)をつくり、新宮ダムに導水するという計画が明らかになると、地域住民からは激しい反対運動が起こった。
 新宮村は昭和29年(1954年)に新立村と上山村が合併して新宮村となった。合併30周年記念冊子『新宮村30年のあゆみ(⑧)』の中で、次のように述べている。「合併で誕生した新宮村の歴史は、驚異的な日本経済拡大のあおりを受けておきた過疎の激動の中にあったといえる。新宮ダムは、このような工業生産至上の世相の中で計画され建設されたものである。………ダムは、吉野川総合開発の一環として、愛媛県への完全分水を前提に計画され、下流域には一滴の流水も残さぬという経済優先の発想に基づくものであった。当然のように、貴重な自然を守ろうとする立場からの反対運動が展開された。昭和46年(1971年)9月、その運動は環境庁長官への直訴陳情となり、同年12月には、ダム建設現場に反対小屋が建設されるに及んだのである。」
 **さんは(現新宮村助役)、ダム建設当時のことについて、「ダム下流の環境保全については、馬立川全量取水を変更して、毎秒0.285tの放流を中心に解決した。ダム建設にともなう水没地域は、法皇山脈のすぐ南に位置する、ダムの受益地域(伊予三島市、川之江市)に一番近い地域であった。ちょうど、ダム建設の計画が発表された時期は、高度経済成長期で、水没地域の人々は、伊予三島市や川之江市に転住したり通勤で働きに出ている者が多かった。そのためか水没地域からは、ダム建設に対し積極的に反対ということがなかった。」と言われた。
 新宮ダムの完成で水没する世帯は、一般100世帯(うち新宮村75世帯、あと伊予三島市)、公共施設4棟であった。75世帯のうち村内に残ったのはわずか3世帯で、96%の人々は川之江市方面に移転していった。

 ウ 新宮の渡し

 銅山川にダムが建設される前は、川の流量も多く、その流域は春夏秋冬その色彩やたたずまいを変え、河川には吉野川からそ上するアユなどの魚類にも恵まれていた。また昔は、その水量を利用して、山から切り出された材木が筏(いかだ)に組まれ、吉野川を下って搬出されていた。昭和2年生れの**さんが子どものころには、まだ筏流しがあったという。
 明治初年に編さんされた、『伊予国宇摩郡地誌(⑨)』および『宇摩郡地図(⑩)』によると、渡しについての記述と記載がある。新宮村を貫流する銅山川(金砂川ともいう)上流から当時の渡しをみてみると、①「古野(この)渡土佐街道新道二属ス村ノ中央字古野金砂川ノ中流ニアリ水幅十五間(27m)深壱間(1.8m)渡船壱艘私渡船二係ル」(馬立村地誌)、②「新宮渡土佐街道二属ス村ノ北方壱町(109m)山字宮林金砂川ノ中流ニアリ水幅貳拾間(37.6m)深貳問(3.6m)渡船壱艘私渡船ニ係ル」(新宮村地誌)、③「大久保渡西川之江道二属ス村ノ西方壱里十七町一問四尺(5,783m)字大久保金砂川ノ上流ニアリ水巾十六間三尺(29.8m)深壱間(1.8m)渡船壱艘私渡二係ル」(上山村地誌)、④「廣瀬(ひろせ)渡川之江道二属ス村ノ西方廿五町五十三間三尺(2,821.3m)廣瀬金砂川ノ中流ニアリ水巾十八間(32.4m)深壱間四尺(3m)渡船壱艘私渡二係ル」(上山村地誌)、⑤「吉(よし)ノ瀬(せ)渡下山村通路二属ス村ノ北方十四町五十三間(1,536.5m)字城元金砂川ノ中流ニアリ水巾廿間(36m)深壱間(1.8m)渡船壱艘私渡二係ル」(上山村地誌)。以上5か所に渡しがあったことが分かる。これらの渡しは、対岸との間に綱を張り、それを手繰って対岸に渡していた。5か所のうち、とくに有名なのが新宮の渡しであった。ちょうどこの場所が銅山川と土佐街道の交わる地点である。新宮村誌編さん委員長の**さんの研究によれば、延宝8年(1680年)の土佐藩の参勤交代従者数は、総数1,413人(⑪)とのことである。これら多人数の者が、先遣隊、本隊、後続隊と出発をずらして、この新宮の渡しを渡っていった。そのため参勤交代時は、臨時に川に船を並列してつなぎ、その上に板を敷きつめて、一種の船橋をつくって渡っていた。これら渡しの存在は、銅山川の水量の多さ、急な流れのため、橋のない時代の交通手段であったことを物語るものである。長い間人や馬、物資を渡していた新宮の渡しも大正14年(1925年)に渡し場の下流30mのところにつり橋が造られ、その姿を消していった。

 エ 銅山川の渓流釣り

 新宮ダムの完成で、銅山川に流れる水は完全にせき止められた。下流に流れる水量は、馬立川堰(ぜき)からの義務放流量毎秒0.285tと降雨水である。昔にくらべ川幅も狭く水深も浅くなっている。
 **さんは、銅山川中流漁業協同組合の組合長である(銅山川の上流は富郷地区、中流は柳瀬ダムから徳島県境、下流は徳島県山城町)。現在の組合員は村内に在住する者220名である。他の市町村の者も入漁料を払えば漁業はできる。**さんによれば、「流域の魚類は、ウグイ、ハヤは従来からいた。昭和32年(1957年)に漁業協同組合が発足した。初代組合長は石川重太郎氏(初代・2代村長)であった。漁業権設定の条件として、毎年アユ・アマゴ・マス・ウナギ・コイを放流することを義務づけられた。昭和42年(1967年)に新宮ダム建設が確定すると、銅山川の環境保全のため、当然私(**さん)などは反対運動の渦中にあった。
 水量が減っているうえに、従来、吉野川からそ上してきていたアユも、下流にダムができることによって、そ上しなくなった。そのため、新宮のアユは義務放流したアユだけである。当初は琵琶湖のアユの稚魚を仕入れて放流していた。最近は琵琶湖の水位がさがって、アユの稚魚があがらなくなった。今は徳島県の阿南市で専門に養殖したものを琵琶湖に移し、それをまた全国に出荷している。新宮では直接に、阿南市の業者のところから、約10cmの稚魚を買い放流している。
 困ったことに養殖アユは集団で大量に養殖するため、餌を与えても集団でやってきて、以前のようなアユ同士の縄張り争いをしなくなった。そのため、よほど達者な者でないと、友掛けでは釣れない状態である。だから放流したアユの4割ぐらいしか取れず、9月ころになると6割は川を下り、せっかくの放流が無駄になってしまう。そのため、アユ釣りの漁法の仕方や規則改正を県や県漁連に要望しているところである。
 アユとちがって、アマゴやマスは越年するので、放流を補充していけば年中取ることができる。
 昭和49年(1974年)には、山村復興事業の一環として漁協によるマスの養殖を新瀬川(しんせがわ)地区で始めた。しかしながら、施設も小さく、せいぜい5万尾ほどの養殖では採算がとれなかった。ちょうど、台風で施設が破壊され、復旧に資金も必要で再建の見込みが立たず、昭和53年(1978年)に5年間操業したマスの養殖も中止して現在に至っている。
 村でも4年前から一つのイベントとして、渓流釣り大会を始めた。大会の前夜にマスとアユを放流しておく。6月と11月3日の文化祭に2回実施している。これは中々好評で、釣りマニアが待ちかねて、高知、新居浜、松山方面からも参加してにぎやかである。だんだんと盛大になれば一つの村おこしの一助になると思っている。」
 いま**組合長の頭を悩ましているのは、河川の汚染の問題である。夏の渇水期になると、現在は少なくなったが養豚のし尿や、家庭から出る廃水で川が大変汚れることである。グリーンとクリーンを標ぼうしている新宮村にとってもイメージダウンになる。いかにしてきれいな川にしていくか、それが漁業協同組合にとっても、この流域に住む人々にとっても、今後取り組むべき大きな課題の一つであろう。

写真2-2-1 四国第一大霊験十二社宮熊野神社

写真2-2-1 四国第一大霊験十二社宮熊野神社

平成5年7月撮影

写真2-2-2 奥之院仙竜寺

写真2-2-2 奥之院仙竜寺

急な参道を登ると仙竜寺へ着く。道路から見上げると林の間から伽藍が見える。平成5年7月撮影

写真2-2-3 新宮ダムと管理事務所

写真2-2-3 新宮ダムと管理事務所

平成5年8月撮影

写真2-2-4 上流からみた新宮ダム

写真2-2-4 上流からみた新宮ダム

平成5年8月撮影

図表2-2-7 新宮ダムおよび堀切トンネル完成までの年表

図表2-2-7 新宮ダムおよび堀切トンネル完成までの年表

新宮村役場:『新宮村30年のあゆみ(⑧)』より作成。注:●は堀切トンネル関連事項。