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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)心をなごませる伝統行事

 ア いつの間にか消えた花取り踊り

 花取り踊りは、鉦や太鼓をたたいて踊る供養踊りで、明治から大正にかけて村内の各部落で、お寺やお宮の庭で盛んに踊られたようである。『柳谷村誌(⑰)』によると、それがいつの間にか消えてしまって、現在では全くその名残を認めるものはないということである。
 村内において伝統行事が少ない理由について、『耳目80年(⑪)』には、伝統行事を崩したりする動きが起こったのは、大正中期からで、水力発電所により大量の金が村に流入したことと、世の中が経済社会に進んだこと、加えて大正デモクラシーの旋風が山村にも波及して、経済合理主義的・個人主義的に方向が変わって、廃止したものが多いと述べている。
 この点に関して、柳谷村教育委員会の**さんは、「33号線の開通によって、交通の要所となり、他地域の情報が早く伝わってくるようになったことや、明治の末期の水力発電所の工事やその後の発電所の経営で、多くの新しい頭脳が入ってきた。それがものの考え方を大きく変えていく要素となった。このようなことが刺激になって、考え方が変わってきたのだと思います。」と語る。

 イ 自然と人情の名荷の里の踊り

 **さん(柳谷村大字西谷 昭和14年生まれ 54歳)
 「名荷部落は、笠取山・大川嶺(1,525m)黒滝山のふもとに位置していて、アメ、マスの川魚、地域の中央を流れる名荷川に恵まれた私たちは、この地を誇りに思っております。『良材と自然と人情の名荷の里』明るく住みよい地域であるように、何事においても協同による作業等助け合いの精神で事に当たっております。祖父母が懸命に取り組んできた名荷踊りを文化活動の核として積極的に取り組んでいます。名荷踊りは、明治の初期に阿波の国から島之助という田掘りを職とする人が、名荷の舟戸の奥に住んでいて、虫除け、豊年踊りと称して、若い者に教えたのが始まりだと言われています。当時の若い男女はこの踊りを習うことに熱中したと言います。しかし、教える島之助も働かなければ食べてはいけませんので、若い男女は習うために先生の面倒を見ながら習ったものだと言います。
 明治・大正・昭和の時代へと、交通不便な村里に娯楽の少ないこの時代、唯一の楽しみとして人々の心をなごませたと言います。一時山仕事の忙しさもあって消えかかっていましたが、昭和33年、私たち青年に当時社会教育主事であった**先生より、名荷踊りの継承の必要性を説かれ、取り組むことになりました。特に、昭和37年の暮れから昭和38年春にかけての豪雪で畑仕事のできない4か月の間に青年団が中心となって、明治生まれの先輩たちにでにくい声を無理して歌っていただいて本格的に踊りを練習しました。発表会の時は、大きな公民館にところせましとみんなが集まり、老いも若きも踊り楽しんだ、この時の思い出は今も忘れることはできません。
 昭和55年ごろ上浮穴高等学校文化祭行事『上浮穴地域の伝統芸能継承活動』の一環として、家庭クラブの要請によって、共に練習を始め、その後、名荷踊りで本村の文化祭、西谷公民館の敬老会などにも参加してくれています。また3年前より西谷小学校の生徒にできないかと申し出があり、共に取り組みたいと思っている。このように後継者育成に努力していますが大変です。」と語る。