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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)伊予と土佐との交流

 ア 地芳峠への道

 久万・梼原(ゆすはら)線は、柳谷村にとって産業、交通、文化の振興と、住民生活にとって大切なもので、この路線に関する歴史は古く、久万・梼原線として、県道に認定された馬道の時代から、車道の開設、また延長へと地域住民の涙ぐましい努力が続けられた。

 (ア)西谷往還

 西谷への道。それは黒川の上流深く古株に向かって、柳井川松本に分かれて永野、崎山を越えて西谷に入り、郷角、本谷、小村、大寺を通って名荷の入り口のククリ松から赤子に下りてまた上り、関のうねを越えて滝野へと、山々の上部のうね、谷を、それは遠い道のりであり、往古より西谷往還と呼んでいた。

 (イ)馬道開通

 大正3年(1914年)11月ようやく里道を馬道にするための測量が行われた。落出一古味間約6,983間(12.7km)について準備道路として、4か所429間(772m)がまず改修されることになり大正4年から着手された。
 馬道の開削については、村の財政が極めて貧困のため、地区住民の寄付や、労力奉仕によって行われたもので、その労苦のほどがしのばれる。馬道が古味まで全線が完成したのが大正9年(1920年)。やっと2m幅の馬道がつき、人々は喜んだ。これから西谷往還は新しい馬道の時代を迎えたのである。
 古味から落出まで当時の道のりを歩いて4時間くらいかかったのではなかろうか。そのころ西谷は無医地区であった。そのため病人がでると生竹を割って三角に曲げ、戸板をおいて、かき棒を通し、その上から毛布を掛けて隣近所の人たちが、代わる代わる病人をかついで出る。朝出ても昼に落出の医者に着くか着かないか、昨日も今日もと西谷から病人をかついだ人の群れが馬道を通った昔の姿を思い出すと沿線部落の古老は語る。

 (ウ)車道開通

 昭和15年(1940年)12月17日この日は久万・梼原線の歴史上最も記念すべき日である。明治35年(1902年)西谷往還を馬道へと夢みてから38年、血のにじむような運動によって県道認定になったのが大正12年(1923年)。それから20年の歳月が過ぎてようやく人々の悲願が達成され西谷への車道開通の日を迎えた。

 (エ)国道昇格

 梼原町と大運動を展開し、県道久万・梼原線は約60年におよぶ長き歴史を秘めて昭和56年3月国道昇格が実現した。松山市を起点として、柳谷村落出までは国道33号線を併用、落出から分岐して地芳峠を経由、梼原町南町において国道197号線に結ぶ国道で、総延長96.6kmである。つづいて、予土国境を結ぶ落出から梼原まで延々43kmの改良整備に向かって梼原・柳谷両町村一体による運動がスタートした。

 (オ)国道440号線改良計画

 柳谷村の最重要課題である国道440号線の改良は、危険で緊急度の高い部分を局部的に改良しながら将来を考えた道路改良を強く要望してきた。
 そこで柳谷村の中心に位置する落出~川前(こうまえ)間の改良を特に急いで着工したのであるが、この区間は、地滑りが多く、地質が非常に劣悪であるため現道沿いでは、できない見通しとなった。
 その結果、広瀬から取付け、対岸の稲村線を少し通り、再び33号線の広瀬上部へ渡り、そこからトンネルで栃谷(とちだに)川へ出て、またトンネルでヒウチ谷へ出て、現在のヘヤーピン(松木口手前)で、現道へ取り付けるよう決定された(広報「やなだに」平成5年10月No.305より)。

 イ 脚光を浴びる地芳峠

 地芳峠、標高1,084m。柳谷村と高知県高岡郡梼原町との県境で四国カルストの中心部。四国カルストといえば、今でこそかなり知られた存在だが、昭和30年ころまでは全くの秘境だった。地元柳谷の人たちもその値打ちを知らなかった。愛媛大学が柳谷村の日浦洞を調査した昭和31年ごろから地芳峠を中心とした石灰岩の高原地帯が世に知られるようになった。大野が原の方は開拓者によって開発が進んでいたが、それより東側にある五段高原の天狗平の方はずっと遅れて脚光を浴びたわけである。
 国道33号線の落出から柳谷道を入り八釜、古味を経由し、松山を発って2時間10分でカルスト台地のほぼ中央に当たる地芳峠に着くことができる(写真2-1-18参照)。ここは東に姫鶴平、五段高原、天狗高原、西に牛が城、姫草、大野が原の稜線がなだらかに連なっている。風にそよぐススキ原のなかに石灰岩が溶け残って彫像のように並ぶカーレンフェルトが続く。昭和48年からは国営の草地開発事業が行われ育成牧場となっている。
 四国カルストは、秋吉台、平尾台と共に日本三大カルストと呼ばれている。その標高はほぼ1,400mあり日本一の高原カルストで最も長いカルスト台地である。高山植物や亜高山植物も自生しているが、何といっても秋の花や紅葉をこの雄大な仙境で観賞し、コックピット、ドリーネなど特有の景観を見ることができる。

 姫鶴荘(めづるそう)で管理人をしていた**さん(柳谷村大字中津 昭和4年生まれ 63歳)
 「地芳峠は、姫鶴荘(柳谷村営昭和44年開設)の開設ころは狭い道路、ガタガタ道で少し雨が降ると山崩れで通行止めになり、地芳荘(梼原町営昭和41年開設、47年より民間に経営委託)、天狗荘とともに、ただ建物がポツンとあるだけで通行可能になるまでお休みでした。休憩所も、トイレも案内標識もなく不便そのもの、でもなかにはその方が山の自然がそのままで良かったと言われる方もありました。
 昭和45年~55・6年ごろまでは、天狗まで尾根伝いに歩いて往復4時間くらいかかりました。その道端には笹ゆり、姫ゆり、オミナエシ、ツリガネニンジン等かわいい草花が咲き乱れていました。写真撮りに来られた方が、道路伝いに電柱が立ち並び、牧場柵も丸太から鉄柱に変わり写真にならなくなったと残念がる方もありました。
 観光客については年々増加しています。高知より香川の利用客が多いのは、高知には地元の宿泊施設があり、香川には地元に大きい山がなく、適当な宿泊施設がないためではないでしょうか。宿泊客はお年寄りや家族連れが多く、日帰りのお客は若者が多かったようです。
 お客様は、写真撮りに来た方、山草を収集に来た方、日頃の疲れをいやすために家族連れで来られる方とか色々でした。
 私は管理人をして良かったなあと思ったことは、宿泊されたお客さんがいつまでも私のことを忘れずに度々お便りを下さったり、毎年返事を書くのに悲鳴をあげるほど年賀状をいただいたり、何年かして、実は私ここでこんな時大変お世話になった者ですがとか、私の父母が満員の時従業員の部屋を空けて泊めていただいたとか、私自身忘れてしまっていることでもわざわざ訪ねて来て声をかけていただき、こんな時くらいこんな仕事をして良かったと感激したことありませんでした。
 物が豊かになったせいでしょうか、都会で食べるような高価な食べ物を注文したりする人が年々増えてきまして開設ごろとは考え方、食べ物の選び方など丸きり変わりました。」

 ウ 交流の乏しかった中久保のくらし

 『愛媛の峠(③)』に、87歳の**さんは「土佐との行き来?そんなものはなかったな。少なくともこの地区には一人もおらん。わしも梼原へ行ったことがある。評判のいい医者が梼原におるので峠を越えて行った。梼原まで3里かな。それだけのことであとは何の関係もない。峠に何があると言うものでもなし。考えてみりゃ、土佐側にも柳谷側にも祭礼がない。行き来するわけがない。祭礼は山の人の楽しみじゃったからなあ。」と語っている。
 祭礼が人々の交流を深めるものであったことは間違いない。情報の乏しい昔にあっては、祭礼の意味は大きかったであろう。そんな祭礼がなかったことが土佐との交流を乏しくした一因かも知れない。また、梼原と落出を結ぶ道路は昭和37年に林道として開設されたが、この中久保は大きく離れており、その上にかなり上らなければならない。このようなことからも土佐との交流が少なかったと考えられる。
 中久保は柳谷村のなかでも、最も交通不便な奥地の山村である。集落は四国カルストとして有名な大野が原にほど近く、標高860mほどの南向きの山腹緩斜面に立地している。
 この集落は、耕地の細分化を防ぐために、戸数18軒を守って100年以上も増減せず、また土地所有規模に格差なく、現に耕地約0.4haをもち、山林50haを各戸が均等に分けて所有している。
 この集落に自動車道が通じたのは昭和37年であり、国鉄バス(現在村営バス)の終点古味から2.6km、所要時間約40分の山道を上ってようやく到達することができる。

 **さん(柳谷村大字西谷 大正11年生まれ 72歳)
 「昭和の初期ごろは、牛・馬が通る程度の道幅が1m位の山道しかなく交通不便で生活は大変でした。日用品をはじめ買物は、古味まで山道を歩いて(約40分)行っていました。また、急病人があった時は組の者で、戸板とか布団を入れる箱のふたに乗せて、交代で担って落出の医者まで連れて行っていました。当時近道を通っても3時間くらいかかっていたと思います。このように古味・落出との交流がほとんどで高知とは余りなかったですよ。
 当時の主食はアワ、ヒエ、トウモロコシ、ソバ、甘蔗等で米飯は病気、盆、正月の時くらいしか食べることはありませんでした。
 焼畑農業で朝早くから晩まで一日中働いていて、こちらでは身体だけで歩くことをただで歩くと言いますが、ただで歩くことはありませんでした。何時も何かを背負って仕事をしていました。当時大・小豆が収入源でしたが、その後三椏が導入され、この地にあうというか、商品作物として三椏栽培に取り組んできました。そのころは収入もあり生活にもゆとりが出来ていたと思います。
 しかし、昭和45年ごろから人口が急激に減少してきまして、集落内の植林作業も一段落し、家族全員でやる仕事もなく、離村する人が増えてきました。」と語る。
 中久保の人口流出は、図表2-1-19のように昭和45年ごろから柳谷村のなかでは最も遅れて始まった。交通不便な奥地の集落でありながら人口流出が遅れたのは、『過疎地域の変貌と山村の動向(⑮)』によると、広大な山林を所有し、焼畑が衰退しても1960年代の前半にはパルプ材の売却などで現金収入が得られ、また自己保有林に植林することで就労の場があったこと、さらに、村落共同体的な性格が濃厚であったことも挙家離村を押しとどめた社会的要因であったと記している。
 その中久保も昭和45年ごろから急激に人口が減少してくる。人口流出は先ず後継者の続出から始まる。これまでは長男が家督をつぐのが通例であったのが、高校進学率の高まりで高校に進学する。郡内久万町にある上浮穴高校までは約40kmもあり通学不可能なので進学先は勢い松山市となり、卒業しても村には帰らず大部分は松山市内に就職する。次いで離村は中高年層にと及んでいった。

 エ 古味(こみ)と梼原との交流

 (ア)古味からみた梼原との交流

 県文化財専門委員**さん(柳谷村古味生まれ 58歳)が、梼原との交流について『愛媛の峠(③)』に、「私が物心ついた大正10年(1921年)ごろは、すでに寂れかけていたんですが、それでも梼原から物資が運ばれて来ていた。高知人を〝土州さん〟と呼んでいたのを覚えています。」
 「古味は梼原と久万とを結ぶ中継地点だった。梼原からは茶などの山産物、伊予からは久万の酒などが多く交易された。馬の背に荷物をつけて多い時は百頭もやって来た。また県境を越えた結婚も多かったようです。」
 「私の家は明治の中ごろ久万から古味へ行き、雑貨問屋をやっていたんですが、昭和の初めに店をたたんで松山へ出た。つまり、大正の末には高知との行き来が寂れ商売にならなくなったんでしょう。新道がついたのが原因では。」と述べている。
 この点について、『梼原町史(⑯)』によると、郡道津野山線が明治34年(1901年)現須崎市から梼原町6丁目までが開通、昭和3年(1928年)高研(たかとぎ)トンネルの完成によって須崎-宇和島間が道路で結ばれた。とあり、日吉村経由で宇和島、大洲方面への道、さらに高知の須崎へ通じる道が出来たため、梼原の産物の流れ方が変わったことがわかる。道路とくらしのかかわりの大きさは今も昔も変わりない。

 **さん(柳谷村古味 昭和21年生まれ 47歳)
 「高知との交流を物語るように県境を越えた結婚も多かったです。昭和30年前後は、三椏の生産が盛んであった。そのため地芳峠ふもとの部落(永野など)から峠を越えて大勢の娘さんたちが働きに来ていました。当時の農家の労力は、すべて人力か畜力に頼っていたので仕事は大変でした(写真2-1-20参照)。
 年齢は20歳前後が多く、そのなかには奉公先で認められて、伊予の青年と結ばれてゴールインしたカップルも増えていました。」
 『柳谷村誌(⑰)』によると、昭和36年9月2・3両日五段高原で東津野(高知県)、柳谷両村の青年交流キャンプが催された。これは青年教育と、両村の生活文化の交流がねらいであった。このような活動を通して、ロマンスも生まれ幾組かのカップルが誕生することを期待していたが、残念ながら実らず団員の減少が大きな問題となりこれも自然消滅したとか。
 「梼原から高知の鮮度の良い魚類を肩に背負って月に一度峠を越えてきていた。また、落出にも医者がおりましたが、高知に近い横野部落の人たちは、馬道を馬に病人を乗せて梼原町に出向いていました。」
 「昭和25年ごろ地芳峠では、春の良き日に相撲大会が催されて、伊予の子供、青年が高知の子供や青年たちと取り組みをして交流していた思い出があります。」

 (イ)梼原からみた古株との交流

 **さん(高知県高岡郡梼原町永野 昭和24年生まれ 44歳)
 「古老から聞いた話だが、昭和の初期ごろ梼原から子守奉公として、小学校高学年くらいの女の子が柳谷の農家へ行っていたようです。」
 『柳谷村誌(⑰)』によると、子守をモリサンと呼んでいた。昭和10年(1935年)ごろまでは、子守奉公が多くみられた。当時の農家は嫁も大きな労働力とならねばならなかったので、子供が生まれると子守を雇った。子守は村内で雇う場合もあるが、土佐(梼原方面)から雇ってくることが多かったようである。子守奉公に出す家庭は子供が大勢いて貧しく、クチベラシのためであった。モリサンは、大抵10歳から12・3歳までの女の子が多かった。モリサンは、子供を背負って学校へ行くこともあったが、ほとんど行かれなかったようである。子守には、たべさすことと、シキセと言って年に2回くらい盆と正月に着物と足袋くらいを買って与えた。また少ない給金でも払うことになっている場合は、親が遠方からわざわざ取りに来ていた。この時代、農家では少しの労力でもほしく、子供が大きくなると、下の弟や妹の子守をさせ、雇っている子守には農家の手伝いをさせていた。
 「大正時代までは、伊予から既製の鍬が入っていたが、その後地元にも鍛冶屋が多くでき、逆に鎌、鍬等背負って柳谷へ売りに行っていた。また、馬の蹄鉄の取り替えをするために柳谷から峠を越えて馬をつれて梼原へ来ていた。」
 「昭和30年ごろ、永野より朝早く峠を越えて柳谷に炭を焼きに行き、夕方炭俵を馬に8俵かるわせ、自分が1俵背負って帰っていたとか。炭の検査日には永野集落の入り口の炭倉庫付近は何百という炭俵が山となっていた。」
 『愛媛県史(⑱)』によると、森林に恵まれた上浮穴郡に木炭生産が急増したのは、明治27年(1894年)松山-高知を結ぶ四国新道の開通に次いで、大正、昭和年間になるにつれて郡内の山村各地に道路が開通し、交通事情が改善されたことによる。造林の過程に天然広葉樹林が木炭原木に利用されたものであり、昭和40年代に入ると木炭原木の不足と、製炭者自身の挙家離村等により製炭業は衰退してしまったとある。
 さらに交流について、「愛媛県との県境に近い高知県の梼原方面の人は伊予へ塩の交換に出る者があった。山からはとうもろこし、大豆、小豆などを運び交換した。また塩売りの行商も来ていた。県境の永野は売りじまいになる所だったので、越智面(高知)の人たちは、『塩を買うなら永野で買え。』といい、塩の値が安くなるからだという。梼原から海岸部へ行くには16里(約64km)以上もあり、往路は一日、帰路は二日かかったという(写真2-1-21参照)。」

 オ 商売上手な伊予の人

 四国のけわしい山間地の県境あたりでは、移動店舗の行商が盛んに行われている。野菜や食料品、魚類、衣料品その他の日用品雑貨類などの業者が、傾斜地に点在する家々を車で巡りながら商いをしている。最近では移動スーパー的にあらゆるものをコンパクトに完備した車も多くなり、彼らは行政などおかまいなしに県境をいきかい独自な販売ルートを開拓している。
 **さん(高知県高岡郡梼原町四万川 明治39年生まれ 87歳)
 伊予の人はなかなか商売上手ですよ。魚行商人が「いわしいらんかなあ。」「きょうはいらないよ。」と言えば、土佐の人は、「じゃまた」と言って帰っていきますが、伊予の人は、「お宅のにわとりはかわいい。」とか言ってうまいことほめてくれる。「そんなら一つもらおうか。」と、買わされてしまう。
 仕事をしている時にもやって来て、世間話を始める。言葉はぶっきらぼうで乱暴なのだが、しらないうちに気がつけば、車の中の商品を見ている。そして買わされている。
 「代金はいつでもいいよ。」と、また借金取りに来ても、全額取らず「一部だけもらおうか。」と、つながりを保とうとする。本当に伊予の人は上手ですと語る。
 もう30年近く金物を積み込んで行商している野村町坂石の**さんは、梼原へは、国道197号線の日吉村と梼原町の県境にある高研トンネルが約10年前に改良されたのを機会に、月に一度か二度行商に行っているので梼原の人たちとも勝手を知った間柄になっている。それは10年間の付き合いだけでなく、彼は年に一度は梼原のひいき筋の人たちを民宿に呼んで一杯会をやる。さわち料理を囲んでの飲み会では覚悟を決めて酒を飲むのだが、それでも土佐の人の飲みっぷりは男も女も大変強く、一緒のペースで飲んでいたら確実に早くつぶれてしまうとか。でも、こうした商売以外の深い友情を積み重ねていくことで、地域での親しみと信頼を一層強固なものにしていると思う。

 力 梼原から金比羅参り

 田辺伊三郎さん(高知県高岡郡梼原町川井)の旅行記
               文芸誌『ゆすはら』昭和57年7月号より
 大正6年3月の末ごろ、私が15歳の時、義兄と従兄弟と一年上の友だちと私の四人で金比羅参り(7泊8日)をした。
 第一日目。梼原日吉線道路を、飯母の方は工事中で通れず、町まで旧道を歩いた。町より田野々までは郡道、狭い道路だが途中、荷馬車に三椏を沢山積んで出るのを見た。
 田野々より永野までは道路はなく旧道であった。地芳峠の一本杉のところで休み、弁当を食べたので少し荷物が軽くなった。地芳からは石鎚山も見えるとのことであった。
 これより愛媛県で、坂を下ると柳谷村古味に出て落出までの遠いこと。自分は痩せ形で学校でもマラソン選手であったので、歩くことは平気であったが、さすがに兄貴は疲れていたようであった。
 落出の宿は、余り立派ではなかったけれど、白飯は沢山持って来てもらい、ご自由におあがりとのこと、芋と麦飯が常食の我々は大変うれしかった。
 第二日目。宿を出た。落出の方も郡道だったが、あまり良い道路ではなく、自動車もなく、通行人も若い人たちはみな自転車で、紳士などは人力車であった。
 久万川に沿って上る道路の途中、御三戸(みみと)の川向こうの石鎚山、面河入り口の七色の岩石を「何ときれいなものねゃ。」と珍しく思った。
 久万町に着いてきつね寿司を食べ、道後行きの道順を尋ねたところ、「三坂峠より近道を下り、森松に行けばそこから汽車で道後まで行き。」とのことであった。
 食堂を出て三坂峠に上り、松山の方を眺め一服した。松山の方は何と広いきれいなものねゃと話したことであった。
 そのごろは歩く人が大勢だったので、近道は一目に分かった。教わったように森松で汽車に乗り、夕方道後の随分立派な宿に着き、すぐ宿着に着替えて温泉に行った。温泉は随分広い大きな浴槽で太い鉄管からどんどん湯が出ていて驚いた。友だちはおら泳いでくるぞと両手両足をバタバタさせて中の方まで行くと、回りの人から「こりゃ何をするぞ。」としかられた。
 女中さんが随分立派な膳を持ってきた。従兄弟が女中さんにチップをやれば扱いが違うぞと行って少し包んで出したら女中は喜んでいた。女中さんは正座で、盆を持ってどうぞおあがりとのことで、入れ物のふたを取ってみれば、種類は多いが中身はほんの少しでご飯も一口くらい、三度お代わりしても自分たちの茶碗なら一杯分も無いようなものであった。その後、さきのチップが良かったのかお菓子を持ってきた。
 第三日目。朝食の時香川県の方へ汽車で行けますかと聞けば、女中さんがまだ汽車はないから高浜より汽船でお行き、一番は9時半だけどこのごろお客が多く、キップが売り切れることがあるので早くお行きとのこと。松山の人は自分たちと違い言葉遣いが良い。
 高浜に行く途中、宿賃は随分高いものであったねゃ。落出の方が良かった。飯は沢山食べれたしと大笑いだった。9時前に高浜へ行ったが、もうキップは売り切れ、困ったねゃどうしょうと話していると、一目で田舎者と分かったのか、ボーイさんのような帽子をかぶった青年が来て、訳を話すと僕が買ってきて上げるからお金を出しなさいと言い、喜んで頼んだところが15分過ぎたのに戻って来ない。これはやられたぞと心配していると、ボーイさんが戻ってきてキップを買ってきてくれた。その時は本当にうれしかった。お礼などはいらないと言われたが、こちらはうれしかったので上げた。昔の人は正直であったものだ。いまなら90%戻って来ないだろうと思う。
 お陰で9時半の船に乗ることができた。天気は良い。瀬戸内海はとても美しいものであった。しかし、現在のヘリーとは速力は半分もなく、1時ごろ船の中で食事が出た。アルミニュームの弁当箱に沢山食べ物があり、空腹の我々はうれしかった。夕方5時ごろ多度津港に着き、すぐに汽車で琴平町に行った。町には多くの客引きが出ていた。桜屋に泊まったが、道後のように給仕はつかなかった。でも食事は盛り切りで沢山だった。
 第四日目。朝食後いよいよ今日は金比羅参り、宿屋の案内役が大きな桜屋の旗を持ち後に客がついて行った。770余段の石段は、人で一杯。上下とも左側通行である。神社参拝後お神楽を奏し、大きな二尺五寸(75.7cm)あるような木守を受け、ご利益があるから一番若い者が持てとのことで自分に背負わされた。町を見物して宿屋に入った。
 第五日目。朝善通寺より琴平まで汽車に戻り、金比羅さんを門前で拝んでから、猪の鼻峠の方に歩いた。汽車も自動車もなかった峠。徳島県の方は山ばかり、今の国道よりずっと上の方であったと思う。岩石ばかりを三か月型に切り抜き、下の吉野川を見れば随分怖いようなものだった。後から馬車が来て、まだ一人乗れるがと言われ、兄貴が疲れているので乗ることにした。池田の町に宿泊。
 第六日目。今日は高知までどうしても行かねばならん。そのため朝早く出て、またてくてく歩き、大歩危、小歩危を過ぎ、穴内から領石の方を通り4時ごろ高知に着き、宿へ荷物をおいてちょっと市内見物。電車は運行していた。
 第七日目。須崎の方へはまだ汽車も自動車もなく汽船だった。浦戸桟橋まで電車で行き、女中さんに見送ってもらい乗船した。さすがに太平洋は瀬戸内海と違い荒波だったので船も大きく揺れた。何分速度は遅く途中に昼食も出て須崎に着いたのは午後4時ころだった。港には多くの人力車が並んでいた。明日のコースが長いので帰り道を少しでも行っておこうと、下葉山姫野々で宿に着いた。
 最終日(第八日目)早く宿を出て葉山川に沿って上り始めた。河原はどこも梼原から出たさらし三椏で真っ白だった。上葉山まで長いこと、道路も荷車の輪型がおおく、人力車以外の乗り物はなかった。帰り道は全部近道を歩き、4時ごろ梼原町へ、帰宅したのは夕方であった。

写真2-1-18 地芳峠より愛媛を望む山並み

写真2-1-18 地芳峠より愛媛を望む山並み

平成5年10月撮影

図表2-1-19 中久保の世帯数・人口と年齢別人口構成

図表2-1-19 中久保の世帯数・人口と年齢別人口構成

「過疎地域の変貌と山村の動向(⑮)」P282より作成。

写真2-1-20 柳谷村古味の集落

写真2-1-20 柳谷村古味の集落

平成5年10月撮影

写真2-1-21 梼原町永野の集落

写真2-1-21 梼原町永野の集落

平成5年10月撮影