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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(2)峠の開削から33号線の改修へ

 ア 土佐街道

 土佐街道は、松山市の「札の辻」(*1)を起点にして、旧荏原(えばら)村、旧坂本村、久万町、美川村、柳谷(やなだに)村を経て高知県吾川郡池川町へ通ずる(江戸時代の土佐街道は松山から土佐境まで12里18丁約47km)幹道で、馬道とか、往還とか呼ばれた昔の道路である。大正9年(1920年)告示により県道松山・高知線となった。
 風の場合は東風といえば東から吹いてくる風である。しかし、街道の場合は、土佐に向かって行くので土佐街道という。土佐から同じ道を松山に向かってくるのは俗称久万官道と称していた。
 東海道など日本の主な街道には、一里毎に松の木などが植えられ旅の目印にしていた。土佐街道の目印で今残っているものは里塚石で、一里毎に石柱を立て、その石に「札の辻より何里」と文字を刻み、旅人にその位置を知らせていた。今ある里石は初めからのものでなく、寛保元年(1741年)3月に、それまで立木だったものを取り替えてできた。里石の文字は、松山藩祐筆(ゆうひつ)、水谷半蔵によって書かれたものであると言われている。
 三坂峠より久万川に沿って下り、高山寺の上に出ると六里石がある。これには「松山札辻より六里」と書かれており、国道33号の東明神バス停の西方約300mの旧道に残っている。この六里石のそばには、台の部分が木製でできている珍しい常夜燈がある。
 『伊予古蹟志』をみると、土佐街道のコースは、松山札の辻-恵原-久万-有枝(ありえだ)-七鳥(ななとり)-池川-横田-越知-佐川-高知である。現在の国道33号を走るJRバス松山-高知間の距離は123km約31里で、旧街道に比して20km迂回している。

 イ 四国新道開削

 伊予の国、土佐の国を結ぶ重要交通路として数知れぬ人たちの足跡を残した土佐街道であるが、近代交通網としての不備は明らかで、明治14年(1881年)上浮穴郡長として赴任した檜垣伸は、「上浮穴の開発と発展の根幹は、道路建設に尽きる。自分の生涯をこれにかけよう。」と決意した。直ちに、四国新道開削の急務を説き、明治17年(1884年)愛媛、高知両県知事の間に四国新道開削の議あることを聞き、明治18年より工事に取り掛かった。寝食を忘れて松山-久万間を自ら進んで峰をよじ登って実測したり、そのころ初めてできたダイナマイトの効力をためしたりしながら費用まで算定して知事を納得させ、この大事業の成立に尽くし、ついに明治25年(1892年)8月松山-高知間を結ぶ四国新道が開通し三坂峠で開通式が行われた。
 この工事の苦労は並大抵のものではなく、郡民も弱りきって工事は計画通り行かないことがしばしばあった。こんな時檜垣伸は自ら先頭に立って槌を振ったり、郡民を励ますために新道開削の数え唄を作ったりした(浮穴史談会第2号より)。

       新道開削数え唄   檜垣伸上浮穴郡郡長作詞(明治19年)

   一つとせ  人の知りた伊予土佐の
                通路は山また山ばかり それ開削せ
   二つとせ  ふだんの運輸(はこび)も戦時にも
                通行便利が第一よ それ国のため
   三つとせ  道は馬車道四間幅
                一間三寸勾配に よく測量せ
   四つとせ  よもやだのみじゃ出来はせぬ
                前代未聞大事業(いままできかないおおしごと) みな熱心せ
   五つとせ  岩も堀割れ山もぬけ
                往来(ゆきき)に不自由のない様に それ破裂薬
   六つとせ  むつかしうても3年の
                月日のうちには仕上げたい この開削を
   七つとせ  難所の工事は久万三坂
                黒岩黒川大身槍 それ突き通せ
   八つとせ  約束極めし村々の
                出し夫は一戸に百人余 それ精を出せ
   九つとせ  工事のつもりは30万
                官金ばかりを当てにせず みな負担せよ
   十とせ   通り初めには賑やかに
                開道式をばして見たい 土予国境で

 当時の工事の目的や状況をあらわした歌で、峰々に、槌音にまじって響く歌声は、檜垣伸の意気をそのままに表現していた。
 経費は、当時の金額にして、25万6,850円、地元民寄付人夫28,000人、夫役負担13,700人、総延長24里17町、一里につき5,939円3銭の工事であった。このように先祖の残した偉業は後に県道となり、やがて国道に昇格し、地方産業開発に、文化向上に大きな役割を果たしたのである。
 この新道開削に奔走をした檜垣伸郡長や各村の人々の他に井部栄範、梅木源平、山内賤雄、佐伯義一郎、桜井政誠諸氏の協力奔走を忘れることはできないであろう。
 外祖父檜垣伸の事どもとして、藤井周一氏が『浮穴史談会第2号(⑦)』に「祖父は何時も久万で出来る野菜は何でもうまい。殊に茄子(なす)の味は天下一品だと言っていた。鰻の如きも久万川の鰻には到底他の鰻は及ばない。牛肉、魚の如きも実に久万に喰うとうまいと言っていた。これは一つには、感情からくる点もあったかと思われる。かように祖父は久万山を心から愛していたものと見える。その愛が一生の事業となり、死後も尚この地に骨を埋めたいと言うまでになったものと思われる。
 『生ある間に成し遂げなかった事が、成し遂げられるのを見たいから、わしが死んだら、遺骨を久万に埋めてくれ。葬式のごときは仏教に信仰のある人には尊いことであろうが、自分は不幸にして仏教的信仰を持っていないのだから一切廃して玄関に遺骸をすえ、生前の知人に告別してもらって、直ちに火葬にし、久万の真光寺の大木の桜の下に葬ってくれ(写真2-1-7参照)。したがって墓標に戒名は不必要で、檜垣伸墓とすればよい。自分の志をあらわす文句を何か考えてくれ。』との事であったから2・3の文句を考えて示したら今の墓標の〝埋骨注心血地〟が気に入ったのである。」と記している。
 遺言があまりにも意外なものであったため反対もあり、松山にも墓をつくって分骨されたが、その他は遺言通りなされた。現在三坂峠に檜垣伸郡長の碑がある。

 ウ 国道33号線の改修

 国道33号線は、町の中心部を南北に縦貫し、愛媛、高知を結ぶ重要交通路として、昭和32年に大改修が始まり、昭和42年8月に完工するまで10年有余の歳月と136億7,000万円の巨額を投入し、その間5人の犠牲者を出すなどのこともあったが、幅員6~6.5m、延長119kmの全線が舗装道路と変わった。また、この国道を起点として主要地方道久万内子線が落合より真弓峠内子に至り、大洲、八幡浜、佐田岬を経る九州・四国連絡線の役割を果たしている。このほか主要地方道西条久万線が西条を起点として面河美川を経て、久万中学校付近で国道に接続している。
 旅客については、国道33号線を伊予鉄バス、JRバスが図表2-1-5のように、さらに伊予鉄久万バスが久万駅を中心に町内及び郡内の隅々まで運行している。こうして、国道33号線の改修によって三坂峠を一変させた。久万と松山を結ぶ交通の便は一挙に改善され、気軽く「ちょっと松山まで」ということになった。現在では久万から松山まで通勤、通学するものも多くなっている。

 エ 三坂トンネル計画

 四国の高速道路計画から取り残されていた国道33号整備問題が昨年(1992年)クローズアップされたことは見逃せない。上浮穴を縦断する33号線は松山-高知を結ぶ幹線。しかし、平成6年度に四国縦貫道が川内まで延びると、両県都間は川之江経由の高速ルートの方が早くなる。このままでは33号線のバス減便なども予想され、沿線住民は危機感を抱いていた。
 「伊賀知事は昨年5月の西瀬戸サミットで、愛媛、高知両県が足並みそろえ33号線の高規格化に努力する考えを表明(図表2-1-8参照)。33号線の難所三坂峠のバイパス建設着手は国の予算に対する県の重要要望に入った。峠には2,000~3,000m級の2本のトンネルを建設する構想も明らかになり、郡民待望の『三坂トンネル』はいよいよ現実味を帯びてきた。
 建設省松山工事事務所などによると、峠近くの直下を通る第一トンネルは、久万東明神(標高約600m)~松山市久谷町𧃴(つづら)川(標高約520m)間で延長約3,200m。𧃴川でいったん地上に出て1,000m前後地上ルートを採る。続く第二トンネルは藤川~久谷町大久保(標高450m前後)間で2,000m前後の見込み。トンネルは第一・第二と段階的に建設する方向。第二トンネルの坑口候補地周辺など地質の複雑な所が多いため、詳細なルート決定までは流動的な要素も残っている。
 三坂峠(標高720m)の最大のネックは冬季の積雪で、現33号線は急峻な高所を走りカーブが多いうえ、峠の松山市側は日当たりが悪く凍結しやすい山の北斜面を通ることが多い。このため、同案では第一、第二トンネル間の地上部分も山の南斜面ルートを採るなど凍結対策に配慮している。」(愛媛新聞平成4年12月4日付けより)。
 トンネル建設による時間短縮は、平常時に車で5分前後とみられるが、ノロノロ運転を強いられる冬季や濃霧時には大きな効果を発揮すると予想される。
 33号線は松山-高知間の幹線で、上浮穴郡民にとっては生活路線。沿線自治体は従来から「三坂トンネル」建設運動を進めており、平成4年はその願いに光がさした年であった。


*1:松山市の本町3丁目の電停はもと「札の辻」と称していた。「札の辻」とは、高札場(掲示板)のあったところである。
  現在松山城のお堀の北西の角に「札之辻」と標石が立っている(写真2-1-5参照)。

写真2-1-5 土佐街道の起点「松山札之辻」

写真2-1-5 土佐街道の起点「松山札之辻」

松山城のお堀の北西の角にある。平成5年11月撮影

写真2-1-7 遺言により真光寺の桜の下に眠る檜垣伸の墓地

写真2-1-7 遺言により真光寺の桜の下に眠る檜垣伸の墓地

今年は70回忌にあたり命日。平成5年11月撮影

図表2-1-5 伊予鉄バス運行路線図

図表2-1-5 伊予鉄バス運行路線図

①特急・急行の所要時間、②便数=特急+急行+普通、③料金は特急・急行料金400円を含む。

図表2-1-8 愛媛県高規格幹線道路・地域高規格道路

図表2-1-8 愛媛県高規格幹線道路・地域高規格道路

「愛媛県」提供より作図。