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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)涼しさを生かした高原野菜

 **さん(久万町東明神 昭和2年生まれ 66歳)
 **さん(久万町大字久万町 昭和28年生まれ 40歳)

 ア 久万の「桃太郎」

 久万の高原トマトといえば、ああ「桃太郎」とすぐに答えがでるくらい、市場や消費者の間で人気が高く、関西でも指折りのトマト産地として知られている。米の減反政策をきっかけに始まった久万地方のトマト栽培は、準高冷地という立地条件を生かした夏秋取りの作型であるが、野菜の産地は連作障害などで10年くらいしかもたないと言われる中で、20年以上に及んでその栽培を続けているトマト生産の足どりを追ってみた。
 もともと、久万地方のトマト作りは、昭和32年ころに父二峰地域の一部で始められていた。肥料や農薬の足りなかった時代ではあったが、それでも、まずまずのトマトが作られていたようである。しかし、雨による裂果や病害虫の被害が重なって、産地としての輸送体制が整わないままに中断されてしまった経緯がある。そのような農家の体験を掘り起こし、昭和45年の試作段階を経て、本格的なトマト作りが始まったのは昭和46年からである(⑧)。
 久万農協で、野菜生産を担当している**さんは、「初めの計画で、松山市のような口が小さいと言いますか、消費人口の少ない所よりも、もっと大きい阪神市場を対象にせんといかんのじゃないかと言うことになりました。それには、トラック輸送ができるだけの生産量をあげなければならんので、全体の目標面積を10haにおき、一戸当たり栽培面積を5a以上という方針で取り組みましたが、幸い、最初の年で10.3haの面積が確保できました。」
 「初めての年は、栽培体験も浅く、技術も未熟のままの出発でしたから、高成績に結びつかなかったので、その翌年には、生産者や面積が少々減ってきました。ところが、2年目の年には、収量も取り引き価格もぐんと上がったため、48年には、面河村や美川村でもトマト作りが始まるなど、周辺地域も一緒になって産地としてのまとまりがでてきました。」と出発当初の浮き沈みを語る。
 野菜生産は価格の変動が大きく、いずれの産地も年によって、あるいは価格の動きによって、面積や生産者の増減がみられることは、これまでの通例である。しかし、久万の高原トマトは、栽培体験の積み重ねと共に次第に力をつけてきて、京阪神市場からは、第一級の優れた産地としてランクづけされ、50年のトマト面積は17haに伸びてきた。ところが、露地栽培での冷夏長雨の年には、病害虫の発生や裂果が多く、その成績が一段と悪くなってくる。加えて、野菜特有の連作障害の徴候が現れ始めたのである。
 **さんは、「産地は10年で移動すると昔から言われましたが、久万でも同じ徴候が見られ、産地維持の難しさを感じました。そこで岐阜県の飛騨地方で行われていた、トマトの雨よけ栽培の技術を、この地域で取り入れることはできないものかと検討してきました。久万町内に設置されている県農業試験場久万試験地の協力を得ながら、4戸の農家で雨よけ実験ハウスを組み建て、2~3年続けて試作したところ、夏季に雨の多い久万地方のトマト作りには、ピッタリの栽培方法ということが確認されました。そして、昭和55年から全面的にこのハウス栽培を取り入れることになったのです。ちょうどその年は、冷夏長雨の年でもあり、この雨よけハウス栽培が効果を発揮したときでした。このため翌年には、ほぼ全域で100%近い取り組みがなされ、その後は、面積の増減がほとんどなくなりました。」という(写真1-2-27参照)。
 ところで、トマト作りをする際の品種の選定については、「収量の多いもの」「作りやすいもの」「病害虫に強いもの」など、ともすれば生産の側からみた選択や品種改良が進められてきた傾向がある。そういう品種の移り変わりについて消費の側からは、「昔の味のするトマト」「コクのあるトマト」への声が高まりつつあった。そして、その求めに応じて開発されたのが「桃太郎」である。赤く色付いても果肉の崩れない甘いトマトではあったが、その栽培方法は、苗作りが難しく気嫌の取りにくい品種だといわれ、技術的にも未知の分野が残されていた。それでもこの扱いにくい品種を、昭和60年から一気に取り入れて久万トマトの品種更新を図ったのである。もちろん、全国的にもまだよく知られていない段階での栽培例であり、冒険とも思われるこの新品種の取り組みに関係者の注目が集まった。
 **さんは、「試作は、2戸の拠点農家にお願いして、一年作ってもらったのですが、その結果、『消費者が求めるトマトは、これじゃなかろうか。』という、味のいいトマトが出来たのです。本来なれば、3~4年の試作期間を経て採用を決めるのが常識なんですが、この桃太郎を入れるときには、試作はさておき、消費者に好まれるトマト、売れるトマトということが先に立ちました。そういう商品作りを重視したトマトの品種更新には、農家から不安の声も出ていたのですが、販売してみると高値に売れる。市場や消費者の方々も歓迎してくれるということで、一応は成功したんですが、結果がでるまでは、どのように評価されるのか、本当はヤキモキしました。」冒険とも思える桃太郎への品種更新は、農家にとっても、野菜の産地としても一つのかけとなり、その好結果が、トマト産地としての飛躍と自信をもたらせた。

 イ 夜なべ選果から共同選果へ

 久万町東明神の**さんは、地元の久万農林学校を卒業した昭和21年から、農林業一筋に生きてきた専業農家である。後継者の息子さんは、学校職員として就職し、同じ敷地内の別棟に住んでいるが、日常のトマト作りは、**さんと奥さんの仕事である。
 **さんは、「トマト作りを勧めてくれたのは農協です。昭和45年に米の減反問題が起こり、最初の1~2年は、山田でも減反すればと思って取り組んできたのですが、年々減反の面積が増えてきそうな情勢でもあったので、トマトでも作って稲を減らそうかと、その気になりました。私の周辺でもトマト作りを始める人が何人かできまして、初めは露地栽培から出発しました。今のトマト作りに比べると、そのころの収入は少なかったのですが、結構所得も上がって、日が経つにつれて早くトマトに切り替えていて良かったなぁーと思っております。」
 「私たちの明神集落は、比較的早く土地基盤整備をしてきましたので、後の耕作が大変便利になりました。それ以前には、私の土地が1.2haの面積で40枚くらいに分かれており、一枚3a平均くらいのところは、まあまあ良いほうだと思っていましたが、それが一枚13aに広がりました。基盤整備によってキチッと区画ができ、機械化によって農作業も大分はかどるようになりました。いまトマトが作れるのも、基盤整備のお陰だと思います。(写真1-2-28参照)」
 「露地トマトから、ハウス栽培に切り替えたのは、病害虫の発生問題もありましたが、私か始めるより一年くらい前から試験的にやっている人がいて、できたトマトを見ると、ハウス物と露地物とでは比べものにならんほど、品質のええトマトがとれていました。そこで、施設の補助制度を取り入れて、ほとんどの人が一ぺんにハウス栽培を始めたのです。やはりこれは、できた果実を見て、こんな立派な物ができるからということと、助成事業導入のタイミングの良さ、またハウス栽培のほうが薬剤散布が少なくて済むなどの利点から、切り替えが早くできました。ハウス栽培では収量も多く、私の場合10a当たり11~12tですが、多い人は13tを超えている人もいるようです。」高原トマト作りにとって、一番大切な夏の季節の雨よけ栽培が、予想以上に大きな効果を上げ、生産の安定に役立つたという。
 ところで、久万地方の初期のトマト栽培で何よりも問題になっていたのは、個人選果による出荷の方法である。農協の**さんは、「個人選果は、夕方トマトを収穫して、夜は家族みんなが夜なべで箱詰めしなければなりません。すると集落での夜の会合や、若い人たちのソフトボール・バレーボールなどのレクリエーション活動には、参加の機会がなくなって、トマト農家は地域のコミュニケーションから外れてしまうことがありました。それに収穫量の多い日には、朝の鶏が鳴くまで箱詰めが続くという重労働でしたので、これでは農家の体がもたなくなるということから、共同選果施設の導入計画が持ち上がりました。」
 生産者の立場から**さんは、「当時私は、作付面積も少ないほうだったので、午後の4時ごろから夕方までトマトを収穫して、夜の間に箱詰めすればよかったんですけれど、共同選果に入る前には、生産者全員から、その賛否についてのアンケートをとりました。『選果機を入れて、共同化にしたほうがメリットがあるのでは……。』と問うたところ、『自分で手選果にしたほうが、丸ごと金が取れるので必要ない。』という人や、たくさん作っている農家では、『夕方暗くなるまでトマトを取って、箱詰めに朝までかかるのでは、体が済んでしまう。どうしても共同選果を……。』という意見が出ました。また『共同選果になるんじゃったら、面積を多少増やして、選果施設場に要る経費分だけ余計に作ったほうが体も楽だし、昼間働いても夜はゆっくり休めるのでそのほうが良い。もう夜・昼働く時代じゃない。』という対策案などもありました。」
 「私の家でも意見が分かれました。家内は『いま作っている10aくらいの面積だったら、手選果のほうがええ。』と言うんです。私は、『そんなこと言うても、おいおい年をとってしんどう(疲労が多く)なってくるんじゃけん、それに共同選果なら、品揃いや売り値も良くなってくるので、共同化せにゃいけん。』と話し合ったんです。
 いろいろ皆の意見の交錯する中での結論は、「金もうけも大事だけれど、それ以上に体のほうが大切。」ということに話し合いがまとまり、昭和56年から共同選果施設による、本格的な共販体制がとられるようになったのである。
 その後、面積を18aに増やした**さんは、「今は、夜なべで仕事をすることはありません。新しい出荷要領では、トマトの果実は朝取りが原則となっておりますので、収穫したトマトは昼までに、コンテナに入れたまま共選場に持ち込めば、後は農家の手から離れ、共選場が全部責任をもって選別・出荷してくれます。出荷に必要な経費は、そのときのトマトの販売価格にもよりますが、およそ30%くらい要るのではないでしょうか。それでも、個人でするより気分的に楽ですし、労力の面からも価格の上からも、いろいろの面で良くなってきました。早く共同選果に踏み切れたことは、本当に良かったと思っています。」と笑顔で語る。
 受け入れ側の市場としても、「久万の高原トマトは、規格どおりの品物が、全部同じに入っているので、安心した取り扱いができる。消費者の方々の評判も良く、産地としての信用度は抜群です。」と評価が高い。

 ウ 久万の野菜は百日勝負

 **さんが、トマト作りでとくに気を配っていることは、「誰の考えも同じだと思いますが、『今年こそは、今年こそは。』と思って取り組むんですけれど、『今年は良くできて、良かったなあ……。』と自分で納得できる作柄は、なかなか無いもんですね。それがために、また挑戦できるんで、それも一つの楽しみになるのかも知れんのですが……。トマトは、その日の天候と、トマトの太り具合に合わせて肥料や水やりの加減があるんですが、天候の先ゆきが読みにくいので苦労します。トマトと話ができるようになるとええのですが、まだ、そこまでにはいきません。」
 「久万のトマトも桃太郎で名をあげ、あれで値段が良くて、消費者からも喜ばれているようですが、そんな状態じゃったら、農家も作りがいがあるというものです。お陰で私たちの所得も、次第に良くなってきたと思います。私の家でも、昨年はあまり良くなかったのですが、それでもトマトの売り上げが400万円を上回り、その前の年には600万円もありました。しかし、この平成3年の年は、他の産地が台風の被害で打撃を受け、比較的、被害の少なかった久万のトマトが生き残って高値を呼んだ特別の年であったからだと思います。今年(平成5年)は雨が多くて、トマトも米も作柄はええほうではありませんが、農業はお天気相手の仕事ですから、いつも、良いときばかりを見てはおれんのです。」年季の入った農業者の言葉には重みがある。
 野菜作りは、とくに気候との関係が大切と言われているが、「久万の野菜は百日勝負」と呼ばれるほど、夏の短い間の天候や、それに応じた管理作業が決め手となる。農産物の自由化問題・産地間競争がますます厳しくなる情勢のもとで、高原という地の利をどのように生かして勝負するのか、産地の生き残りをかけた野菜作りは、今後も限りなく続くであろう。

写真1-2-27 トマトの雨よけハウス栽培試験(愛媛農試久万試験地)

写真1-2-27 トマトの雨よけハウス栽培試験(愛媛農試久万試験地)

平成5年7月撮影

写真1-2-28 明神地域のトマトハウス団地

写真1-2-28 明神地域のトマトハウス団地

平成5年7月撮影