データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

県境山間部の生活文化(平成5年度)

(4)立ち上がった若者たちのいぶき

 **さん(久万町菅生 昭和11年生まれ 57歳)
 **さん(久万町露峰 昭和36年生まれ 32歳)
 **さん(久万町上畑野川 昭和47年生まれ 21歳)

 ア 松山通勤圏域に入った労働力

 久万林業の担い手組織「株式会社いぶき」の設立に当たって、その生みの親である河野修久万町長は、「この近年、林業に携わる人は減少・高齢化するばかりで、山の手入れも思うにまかせず、その山を守る若いパワーを久万林業は呼んでいる。愛情を込めて山を育てている林業人には、きっと美しい森林の創造によって報われる日があると信ずる。いま、久万林業に新しい『いぶき』を吹き込みたい。」(要約)と述べている。
 昭和20年の終戦時には、久万町の造林面積は30%くらいと推定されていたが、戦後の木材ブームによって高まった植林熱は、30年代に入ってからも増え続け、昭和35年の人工造林率は72%に達している。そして38年には、前述のように愛媛大学農学部の協力によって調査された報告書をもとに、久万林業の基本方向が示され、地域の実態を踏まえた林業経営が進められることになったのである。
 ところが40年代に入っての林業は、輸入外材の圧力や、若い働き手の流出によって、この基本計画の推進に大きな障害を受けることになった。久万町農政課長(前林業課長)の**さんは、「基本計画を立てた当時は、町内の森林組合に労務班をかまえておって、山の仕事は、その人たちを雇い入れたり、面積の大きい林業家は5~6人の常雇いを入れながら、植林や枝打ちの手入れをしてきました。
 40年代に入ると、久万町にも過疎が始まりだしました。昭和38年に整備された松山・高知間の道路事情によって、所要時間が短くなり、久万町は、松山市への通勤圏域に入ったのです(写真1-2-22参照)。今まで、暖かい季節には農業をやり、冬季の労力はほとんど林業に回っていたものが、日銭(ひぜに)のかせげる松山への出稼ぎに変わったのです。寒い季節には、暖かい松山に行って働くほうが金になるということで、毎朝車に乗って出かける人が多くなってきました。そして高齢化の訪れです。
 このようになってくると、久万町が全国に先駆けて打ち出した、優良小丸太作りの将来構想が計画どおり進まなくなってきます。小丸太生産というのは、10.5cm角の柱作りですが、それは枝打ちの仕事を継続することによって、表面に節のない木ができ、高級な柱がとれるのです。その計画に乗って人々は、制度資金を借り入れながら、森林面積を増やしていったのですが、その反面で、労働力の流出と高齢化現象は、久万林業にとって暗い陰を落とすことになりました。
 久万町の場合、一戸の所有面積は5ha以下の林家が66%を占めている零細経営ですから、林業経営というよりも農林業で成り立っている家がほとんどです。そして山というのは、財産を備蓄する考え方が強く、人手が足りないといわれながらも、そこそこに山を守ってきました。」と経緯を語る。
 そして、その努力も今は限界にきており、間伐のできていない放任林がぼつぼつ見られるようになってきた。人手を入れたくとも、その人手が足りないのである。林業発展期には、100名以上もいた森林組合の労務班の人たちも、今はその半数以下にまで減り、しかもそのメンバーの平均年齢は60歳を越えているという。

 イ 第3セクターの林業会社

 このような、久万林業の危機的状態の脱出を目指して立ち上がったのが「いぶき」の若者たちである。
 **さんは、その当時の林業課長として、林業の担い手対策に頭を痛めていた。過疎化の進む中での、林業経営や身分保証の一切無い労務班活動では、ますます人手は減る一方で、特に若い人たちの参加は全く望めないという現状から、労務班活動の仕組みを基本的に見直す必要があると考えていた。
 **さんは、「昭和63年度だと思うんですが、国の方から『林業担い手対策事業』という新しい事業の受け入れを打診してきました。人に関する事業は難しいことも多いので、できるだけ避けたいと思っていたのですが、町長が『やっぱりやらなきゃあ、いかんぞー。これは一つ、担い手育成を本格的にやろうじゃないか。』と決断されたので本腰が入りました。」
 「ちょうどその時、『ふるさと創生1億円』の資金の話が出ておりました。この使い道について久万町では、何に使うかと決定したのは県下でも遅かったと思います。役場の課長会でも検討してみいと指示され、イベントや箱物作り(建物)の話も出たのですが、最終的には『町づくりには、やっぱり人作りが一番』ということで、みんなの意見がまとまり、町長に報告しました。町長も『そうしよう。』と町議会にも相談され、本格的な担い手つくりの活動が始められるようになったのです。」
 平成2年には、「やるのであれば早いほうがよい。」ということで、プロジェクトチームをつくり、先進事例の調査や、若い人たちの意見をくみ取りながら考えられたのが、第3セクターとしての林業会社設立である。
 **さんは、「会社設立の組織づくりを進めるために、各町内をずっーと回っていくと、『こういう活動がほしかった。もっと前にこんな組織があったら、後継者も居たはず。』と喜んでもらえました。中には『総論賛成だが、各論には問題がある。そんなことで会社が黒字経営になるんじゃったら、今までに誰かがやってきとる。』という厳しい意見もでました。それでも『わしは、当てにはせんが、保険に入ったつもりで協力する。』『久万がそれで発展するのであれば、喜んで入会する。』と農林業以外の人たちからの賛同もありました。」と平成2年8月2日の会社発足までの経過をふりかえる。
 ふるさと久万町を守り、林業を育てるために発足した「株式会社いぶき」には、最初の年に6名の若者たちが集まり、「会社組織を作っても若い人たちが集まってくれるだろうか。」と心配していた関係者の胸をホッとさせました。
 そして、その後も順次新しい勢力を加え、現在17名のメンバーで、林業の現場作業を担当しているが、彼等は入社前には、ほとんど林業に携わった体験をもたないので、県林業試験場で行われている「林業新任技術研修」には必ず参加して、自動化してきた林業機械の取り扱い方や、木を育てる基本技術を学びながら、仕事に取り組んでいる。
 また「いぶき」に入社した社員の給与は、役場職員同等の格付けで、ボーナス・休暇・労災保険などの措置も講じられていて、これまでの労務活動とは違った、サラリーマンとしての位置付けが彼らにやる気を起こさせている。

 ウ いぶきの若者たちの本音

 学校を卒業すると、松山の電気関係の会社に就職していた、久万町大字露峰の**さんは、「僕は久万へ帰ろうと思ったのは、山がどうのこうのということは全然考えていなかったです。ただ、それまでの会社は出荷した製品を調整する部門にいたものですから、全国のいろんな所を数か月単位で回り、調整の仕事を担当していたので、松山に就職していたと言っても、松山に居るのは年に3分の1もないくらいで、出張先のホテルや旅館を住み家としておりました。そこで、寝ぐらが度々変わるのは嫌だなあという気持ちと、もっと落ち着いた生活がしたいなあと思っていたところへ、『こういう会社が久万にできたので……。』という話があり、『ほんなら帰ってみようか。』と久万町に帰ってきました。」
 「私の家は、山も少しはありますが、林業で食べているわけじゃあないのです。『こういう会社ができたんじゃあ。』と聞いたのは親からで、電気会社を辞める時も、こちらへ帰る時も、親と相談をして決めました。そのときには、別に久万には帰らなくとも、松山に就職してもよい、出張中心の転々とした生活から抜け出して、落ち着いた仕事をしてみたい気持ちがあったので、その新しい就職先に『いぶき』を選んだということです。」
 「会社勤務のときは、出張旅費などで経済的には結構余裕があったし、都会での華やかな生活から、山の田舎へ帰ってくるのですから、気持ちの上では、いささか抵抗もありました。そして久万へ帰った当初は、何か時間が止まっているような感じがしたのです。」
 **さんと同期に入社した久万町上畑野川の**さんは、「私は地元の上浮穴高校林業科を卒業しました。学校を卒業して久万山に残り『いぶき』の会社に就職するのは大変な仕事ですから迷いもありました。それでも最終的には、自分がこの仕事をやろうと思って決めました。この年に私のクラスでこの会社に就職したのは私一人で、ほとんどの同級生が久万町から外へ出て行きました。林業後継者として家に残った人や、農協に勤めた人も何人かはいるので、時にはみんなで寄って楽しむこともあります。
 今は、いぶきの給与体系もまあまあ安定しているし、ボーナスも貰(もら)えるので普通の会社へ入っているのと同じです。みんなもいわゆるサラリーマン生活と同じ目で見ているようです。」
 会社の勤務体制について、就職体験のある**さんは、「いぶきの勤務時間は、始めと終わりの時間がきっちりとしています。前の仕事では、夜遅くまでの残業や、徹夜作業もあったのですが、ここでは、朝8時から夕方5時までの勤務時間とか休日が完全に決まっているので、そういう点では良いと思います。待遇面は、労働はきつい仕事があり、給料もそれほどではありません。松山時代の友達なんかは、『松山へ帰って来い。』と言っており、付き合いの範囲も久万へ帰ったことで縁が切れてしまった人もかなりいます。」
 高校卒業後、直ちにいぶきに入った**さんは、「最初のころは、会社が終わって家に帰っても疲れていて遊びにいく力もないし、もうどうなることかと思っていましたが、3年目を迎えた最近では、そりゃあ多少はしんどいですが、大分馴れてきました。会社の先輩たちが、ええ人ばかりですから楽しくやっています。近くにはいつも誰かがいて一つの作業をしておりますので、休憩のときやお昼のお弁当を食べるときは、皆一緒です。仲間がいて、一緒に働けるということは、いろんな面でええと思います。」
 **さんは、「私がこの会社へ入ったのは、発足してから半年くらい経ってからです。そのときには、すでに6名の先輩が活動をしていましたが、今では17名の構成です。仕事の取り組みも、最初は人数が少なかったので、みんなで同じ山で作業をしていましたが、いまは3~4班に分かれてそれぞれが一つの山に入っております。そして僕が思うたんは、会社でみんなが同じに木を切りよっても、一人一人の仕事に対する考え方というか、何のために木を切るのかということが、皆それぞれに違う考えをもっていることに驚きました。」
 **さんは、「ここに入ってくる前には、想像しとったんですが、仕事の面で、やっぱり教科書で習うような事と、実際に自分で手足を使ってやってみるのとでは、大分差がありまして、自分で確かめて、初めて林業の仕事も大変だなあと実感しました。私の家も林業農業といった経営ですが、これまで、林業の仕事は学校の実習で体験したくらいで、家で手伝ったことはありませんでした。」
 厳しい条件下におかれている久万林業の新しい推進力として期待されているこの若者たちに、「林業で生きていける希望と明るさを求めるとすれば」と問いを投げかけてみた。
 年長の**さんは「そうですね。林業はもうからんし、しんどいし、明るさはないのじゃないですか。それでも林業をやっとるのは、一遍帰ってきたときから辞められなくなったということもあるし、それに山とか、間伐をしていない山、手入れをしていない山を見ておったら、今まではそんなこと何にも思わんかったけど、何か見とるだけで気になる感じがします。そういうんでやりよるんです。」 
 若い**さんも、「これだけの山がありますので、手の加わっていないところの林も大分あります。この『かすみ』のかかっている林業を、私でも何とかしたいという気持ちがありますから、やって行けるんだと思います。」

 〔備考〕

 林業に生きる人々のくらしの項では、久万町の他、小田町上川の**さん(85歳)小田町森林組合長**さん(60歳)から、小田林業の発展経過や、林業に生きがいを求めた人々のくらしについて、きわめて意義深い生活体験を聴取したのであるが、紙面の都合上、その報告を次の機会に譲りたい。

写真1-2-22 道路事情の良くなった国道33号線(久万町東明神にて)

写真1-2-22 道路事情の良くなった国道33号線(久万町東明神にて)

平成5年12月撮影