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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)山を愛し地域と共に生きる

 **さん(久万町下畑野川 昭和20年生まれ 48歳)
 **さん(久万町下畑野川 昭和2年生まれ 66歳)

 ア 林業に生きる父子のきずな

 **さんと**さんは、いとこ同士で、ともに下畑野川地域で林業を営んでいる。そして**さんは100haの林業専業経営、**さんは林業に加えて「磨き丸太」づくりなどの銘木生産に力を入れている。年齢も経営環境にもいくらか違いはあるものの、「林業に生きる」基本姿勢に、「山を愛する」心の流れに、共通のものがみられるのは、彼らを地域に根ざした林業家に育てた**家の先代、**氏の影響するところであろうか。
 **氏は、今回訪問した**さんの実父であり、**さんの叔父に当たる。平成2年に没した彼の句集「山村日記」には、その生涯をとおして木と触れ合い、自然と親しんできた慈しみの心があふれている。

   「一本一本拝んで伐(き)る杉の木のいのち」(昭和31年)
   「この木が私と同じ歳で一抱えとなった」(昭和33年)
   「一鎌ほどは刈りのこしてやる虫の声」(昭和33年)

 **氏のこの人生観が、長男の**さん、おいの**さんたちの生活にとって大きな下絵になっていることは、容易に想像できる。
 **さんは「私が家の仕事を手伝い始めたのは、学生生活を終えた22歳からですが、山に連れて行かれたのは10歳くらいの時から始まりました。そのころは山に行っても、ただ見ているだけで、仕事は何もしなかったですね。山に連れて行って山に親しませる、好きにならせるということであったのでしょうか。キャラメルを買ってもらったり、お菓子を買ってもらったりして、私もそれに釣られて付いて行きました。例えば注文材がきて、**さんがそれを請け負い、父と**さんが山に入る際に私も連れられて行き、この木を切るとか、あの木を切るとかという仕事の相談を見てきました。」
 「これも、父の教育のあり方ですが、私は長男でしたから、とくに林業という仕事は親子代々のバトンタッチがうまく行かんと成りたたないので、跡取りを上手にしつけていくことが大切だという考えがあったんでしょう。また、この辺りは田舎ですから、いろいろありますけれど相続でもめたり、そのことで家が駄目になったりという話を、たびたび聞いておりましたので、経営も大事だけれど一番肝心なことは後継者の教育だと思っていたようです。」
 「私が中学を卒業した昭和35年当時は、ちょうど経済の高度成長期でもあり、集団就職が盛んに行われていました。中学卒業後は大都会へ出て働く人が多く、畑野川中学での高校進学率は30%くらいでした。父はその当時、一般的な高校教育にはあまり賛成できないという考えでしたので、私は父の希望する山形の私塾の農業学校に入りました。まあ私としては、好き好んで行ったというよりも、行かされたんでしょうね。そこで2年学んでから家に帰り、林業の専門知識も必要だということで今度は地元の上浮穴高校林業科に学びました。そして卒業するころには、世の中もだんだん変わってきておりましたから、さらに大学に進学して専門の知識を深めたいと望んだのですが、高校期の林業科コースの学習では残念ながら手が届きませんでした。
 ただ私は浪人してまで大都会の大きな大学に入る必要はないだろう。とくに林業という仕事は地域に非常に密着した仕事であるから、勉強するなら地元の大学で学びたいとの気持ちを強くもっていたものですから、愛媛大学農学部の聴講生として勉強の機会を与えてもらったことは幸いでした。そして父が師事しておりました、大山澄太先生の家に下宿させてもらい、そこから学校に通いました。」たんたんと語る少年期から青年期にかけての生活体験からは、「森に生きる」という基本理念で、がっしり結ばれた父子のきずながひしひしと伝わってくる。

 イ 久万林業の進路

 明治の初めころから本格化した久万地方の林業は、明治の末年から昭和の戦前にかけて、井部栄範の影響を受けた篤林家たちによって大きく進展した。大正初期には、久万町中野村の秋本半次郎が、人工林を枝打ちして節のない良質の柱材生産の技術を開発し、その手法は親族の下畑野川、**家にも伝達された。この枝打ちによって生産された木材は、一般材より高い価格で電柱材や、柱材として取り引きされたという。
 戦後復興期の昭和25年ころからは、木材の需要が急激に高まり、空前の木材ブームをむかえた。植林は上浮穴郡内全域に広がり、それまでの焼畑用地や採草地などは、またたく間に人工林に姿を変え、荒廃した国土を、早急に復旧するための造林補助金の交付(事業費の4割)がさらに植林熱を高めた(⑤)。
 昭和40年代に入ってからの林業経営は、輸入外材の圧迫を真正面から受け、木材価格の低迷が著しくなってきた。久万林業においても、生き残りをかけた対応策として新しい時代が求める木材供給への道を開き、技術体系の組み立てが必要となった。
 久万町では、昭和36年、愛媛大学農学部に、久万林業の将来方向の指針を得るための総合調査を依頼した。昭和38年に提出されたその報告書には、久万林業の向かうべき道として、一つはよく揃った優良小丸太材を大量に生産すること。今一つは、形質のよい大径材(直径の大きい木)を生産することの、二つの方向が示された(②)。
 そして、昭和41年には、上浮穴郡全域の林業振興を図るため、郡内の各町村・森林組合などが一緒になって林業振興協議会を結成し、二つの改善方向をめざして努力が続けられているが、国内の建築様式の変化や輸入木材の圧迫は、予想以上に厳しさを増して林業経営にのしかかり、今なお、その大波に洗われている。

 ウ 林業は地域からの預かり物

 林業の厳しい事態に直面して**さんは「一つは今の林業経営は、世の中の動きや移り変わりからみて、経済的に難しくなってきております。それに労力の問題があります。自然保護とか環境問題とか言われますが、これも表面的なものであって、林業に対する世間の人の理解は、まだまだ少ないように思います。後継者の問題もそうです。私の家の息子は、いま20歳で大学の3回生ですが、『僕は林業に向いていないから嫌だ。』と言っており『親父(おやじ)を見ていると金もうけが下手だから、僕は経営学を勉強して金もうけをする。』などと話しております。
 ただ、林業というのは難しいというか奥の深い職業で、面白さが分かるのには非常に長い年月がかかると思います。20歳や30歳くらいでは、本当の良さが分からないと思いますよ。私は、今でも迷いがありますけれど……。例えば経済的に計ってみても、父は若いときから、きちょうめんに記録する人でしたが、親しくしてもらっていた林業経営の第一人者と言われた大学の先生に、『私も長らく帳簿をつけておりますが、林業というものは、今の経営学では計れませんね。』とお話したら、その先生も『そうかも知れませんね。』と答えられたそうです。
 父はそう言いながら、亡くなる前にも『わしは林業で一生やってきて、何とか人様よりか、少し増しな生活をさせてもらったんだから、林業という仕事が成り立たないことは無いと思う。』と、そんなことを話しておりました。」
 いま農山村全体が若者不足、高齢化現象の時代にあって、この現実は林業経営の上からも大きく響いてくる。例えば、指針で示されている質の良い木材を育てるためには、枝打ちの作業は欠くことができない大切な仕事であるが(写真1-2-16参照)、若い人たちが残らなければ、この作業を受け継ぐ人が居らなくなると案じられている。
 **さんは、さらに言葉を継いで、「若者が林業に帰るためには、その経営に面白昧がなければ帰ることにはなりません。職業の選択にはいろいろな要素があると思いますが、数年前に、埼玉県の青年が私の家に研修にやってきまして、その人は、もともと林農家育ちではないのですが、林業に興味を持っていて、『僕の同級生もいろんな職場に行っておりますが、他のものは生長しないでしょう。ところが林業というのは、木を植えたらそれが目に見えてドンドン生長してくれるのです。そのことが楽しみです。』と、そのような見方をしてくれる人が中にはいるんですね。数は少ないですが……。」
 このような人が居れば、地元の若者が帰らなくとも林業は営めると言う。「それには、所有の形態とか経営の形態を考えてみる必要があると思います。これは農業でもそうだと思いますが、農家に生まれたから林家に生まれたから、それを継がなければならないということはなく、本当に農林業が好きでやりたい人は、都会の中にだっているのですから、所有と経営の問題を解決すれば、林業は守れると思っています。
 それと、これも子供の進学・進路のとき話したのですが、林業というものは、地域からの預かり物だから、私がやれる間は続けるが、もしあなたたちが林業を継ぐのが嫌だったら無理に継がなくてもいいと言っております。男1人、女3人の子供たちのうち誰かがやってくれればそれでよいと思っていますが、もし誰も継いでくれる者がいなかったときには、地域にお返しすると話しております。」

 エ 地域林業の試金石

 **さんの家から1km足らずの所に、明治13年(1880年)に曽祖父が植えたという二抱え近くもある大きなスギ木立ちがある。素人目にも、いかにも手入れのよく行きとどいた育ちの良さと山の風格が備わり、シンシンと静けさを保っている。そういえば先代の句集で散見した「一人山にきて林の静けさ楽しく」とあるのは、この静寂(しじま)なる一ときの流れであったのかとうなずける。段階的に切り取られた老木の間には、2代、3代と渡って植えつけられたスギの木が、今ではすでに天を仰ぐまでに大きく育ち、複層林という新しい林業経営の形を作りあげている(写真1-2-17参照)。
 **さんは「久万地方の林業の特徴とも言えますが、この地方は、農業をやりながら林業も営んでいる人がほとんどで、全国の有名な木材産地の吉野とか、三重県尾鷲(おわせ)のような大規模経営の林業地帯とは条件が違います。私どもは、このことを『農家林業的林業』としてとらえています。そのような小規模経営の者が、集まって、林業の主産地化を目指していこうとしているところなんです。限られた狭い面積の中で、林業は投資してから収益があがるまでに、非常に長い期間を必要とします。例えば、家を建てる柱を切るまでに30年、40年はかかり、さらに60年、80年と長くなることもあります。
 いま木を植えて、これから80年後にしか収益があがらんようでは困ることがあります。それから農家ですから、子供の進学とか結婚するということになりますと、不時の出費が必要で、そのときに役立つ予備的な財源としての木材が欲しいのです。そのためには、これまでやってきたような、「一斉に植えて、一斉に切る。」という一斉林仕立のほかに、備蓄的に残す山とか木材を考えておかなければなりません。そんなことから、間伐を繰り返しながら大きな木を残し、その空いた所に、また新しい苗木を植えていく造林技術が定着してきたのです。つまり一枚の山にいろいろの木が立っていることを二段林とか複層林とか言っております。」
 複層林の育成が、久万地方で急速に伸びてきたのは、昭和20年の第2次大戦後であり、現在およそ100haの面積があると推定されているが、その育成で最も大きな問題点は、伐採時における下層となる小さい木の損傷である。伐採には熟練の技術を必要とするが、それでも大きい木を倒すときには、どうしても下層木の傷みが少なくない。その一方で、二段林で育成された下層木は急成長しないために、年輪が等間隔に走って材質がちみつであり、磨き丸太にはもってこいだという評価でもある。その複層林の育成方法を研究するため、国・県の林業試験場と連絡をとり、まず自分の林地を試験林に提供している**さんは、「私の家としては地域の林業発展のためになるんじゃったら試金石になってもいいと思い、家の山を試験林のようなものにして、いろいろなことをやってきました。一株から数本の木を採る台杉(だいすぎ)仕立をしたり、密植の山をつくったり、品種別の試験林を設けたりしました。これは父の時代からの引き継ぎで、私も現地研究に取り組んでいます。」
 生育期間の長い林業にあっては、その現地研究もまた、長期にわたっての努力が必要である。試験林を訪れた小春日の午後の木もれ日がまぶしく輝く。

 オ 林業の付加価値づくり

 久万地方で、林業の付加価値づくりを目指した磨き丸太の生産は、昭和25年からであり、久万町下畑野川の**さんが、叔父の**氏の協力を得て取り組みを始めた。
 **さんは磨き丸太との出合いについて、「それは叔父との相談の中で、考えをまとめ決めたものですが、そのころ私は地元の森林組合に勤めておりました。この森林組合には、製材工場がありましたので、原木としての立木や丸太を買い取り、柱材や足場(建築組立用)材の丸太に仕上げて売っておりました。そのうち、一人立ちの時期を迎え、身を立てるには、木材で生活をさせてもらうより他に道はありません。しかし、製材の販売業者になるということは、これまで育ててもらった森林組合と同じ仕事をするので心苦しく思い、木を扱いながら、何か生活する目処(めど)がないものだろうかと考えていました。そして松山の方へ取り引きに行っているうちに、銘木の磨き丸太のようなものが、久万山でできんものかと思いつき、そのことを叔父に相談しました。
 そのころは、農村の二、三男問題とか、潜在失業者対策だとか言われていた時代であり、叔父も公民館等の活動をとおして、山村収入の道を一生懸命考えておったようでしたから、『それでは、一つ始めてみるか、私の家にある材料は何んでも提供するから。』と、協力を約束してくれたのです。そうして二人で研究していこうじゃないかと先進地の京都に行ったり、吉野に行ったりして、始めは見よう見まねからの出発でした。」
 当時の磨き丸太に用いる木を作るのは「台杉仕立」という方法があって、京都北山がその産地として有名であった。このスギの育て方は、一本のスギの途中から枝を残して切り、そこから出たわき芽を順々に太らせて、一株から何本ものたる木を作る仕立てであったが、現在は密植栽培による小丸太生産が主流となっている。
 また、**さんと共に磨き丸太の生産販売を手がけてきた奥さんによると、「磨き丸太づくりの作業は、男の人のように力まかせにゴシゴシ磨くよりか、ある程度柔らかく女性の力くらいで磨いた方が仕上がりがきれいです。それと、地味な仕事で根気がいりますから、私の所に磨きにきてもらっている人は、ほとんどが女性です。」と言う。結婚当初から自分で丸太を磨き、久万銘木を世に出した内助の功の人の話には説得力がある。
 床柱に用いる人工絞(しぼ)り丸太の生産が開始されたのは昭和36年であり、これもまた、**さんによって始められた。絞り丸太は表面に凸凹のある丸太材で、もともとは、天然絞り丸太が貴重な銘木として京都北山あたりで生産されていた。人工絞り丸太とは、木に凸凹となる材料をあてがい人工的に絞りを作る仕立てで、住宅の高級化に伴って急速に需要の増した木材である。
 **さんは、「人工絞りの技術は、**の先代が一番最初に『どうも面白いらしいけん、ここに入れることはできまいか。一緒にいってみようや。』といって、年間に何度となく京都に足を運びました。ところが北山というところは、ものすごく閉鎖的なところで、優れた技術や苗木は、一つでも外に出したくない、守りたいという土地柄です。そういう守りの堅い地域に入って、見てはまね、見てはまねのことですから、とても1年や2年の間では、思うような製品に仕上がりません。それでも北山の中でも、3~4人の林家は、いつでもやさしく迎え入れてくださったのは、先代の人徳でしょう。私らには、とてもまねのできることではありません。」
 「人工絞りでは、いろいろと苦労がありましたが、それでも続けているうちに、まあまあの製品ができるようになりました。この地方でも絞り丸太を作るために、一番多い時には35人くらいの人が、シュボ巻き(絞りを作る当て木巻き)の作業にたずさわっていましたが、いまは、20人くらいに減ってきております(写真1-2-20参照)。
 銘木つくりとして、地域に定着させる技術や作業の指導は、もういままでに終わっています。それで採算がとれて、結構収入のある人は続けておりますが、それができない人は次第にやめる傾向です。シュボ作りの人が少なくなってきたのは対象になる木も少なくなり、需要も減りつつあるところに原因があります。」と、せっかく軌道に乗ってきた銘木作りにも、陰りがみえるという。

 力 木は人間に語りかけてくる

 **さんは、生産の立場から「林業の場合一般の造林では、地ごしらえをして植林し、下刈りの作業が終わるまでに、1haに200人役くらいの労力がかかります。それに、いい柱材を取るために枝打ちをしていくと、大体2倍の400人くらいはかかります。そういう方法で表面に節のない柱を作りますと、現在の木材の価格で8,000円くらいには売れ、ヒノキではさらに価格が上がります。枝打ちをしていない節のある柱は、1,300円程度ですから、2倍の経費を投入して6倍とか7倍の経済効果をねらっているわけです。非常に労働集約的な作業と言えますが、手間をかける程よい品物が生産できる仕組みは、農林業に共通していると思います。
 私の家の林地の面積は100haほどですが、それを細かく管理する労力は、今はありません。戦後の一番多い時には、常時12~13名の人に管理作業にきてもらっていましたが、いまは居りませんので山は放ったらかし(放任)です。林業は植えてから20年くらいまでの初期の段階には、労力がものすごくかかりますが、それを過ぎますと、後は間伐を繰り返すとか、山の見回りをするとかで手間が大分省けます。私の家では、これまで木を育てることに力を入れてきましたので、伐採搬出などの作業は、森林組合の専門作業班の人たちにお願いしてきました。」
 **さんは「この畑野川地域には、ええ林ができているんです。きれいに枝打ちをされた林もたくさんあります。木は枝打ちさえすれば、そこを包みこんで大きく育ってくれるので、人間と同じような回復力を持っています。林業は3Kなどと言われていますが、本当はいい仕事なんですよ。山へ行ったらこちらから声をかけなくても、木が向こうから語りかけてきます。」という。

 キ 計画的な経営移譲

 後継者対策の問題の一つに、林業経営の場合、家督権とか財産の相続が非常に難しいと言われている。**さんの場合「私の家では林業経営というのは、いつまで経っても親が実権を持っているのはよくないんじゃないかという父の考えがありましたから、昭和30年から新しく購入する山は私の名儀にしておりました。そして年間いくらかずつ計画的に贈与する方法を取っていました。
 父は『納税は国民の義務だから、当然納めなくてはならないし脱税はいけない。ただ節税は許されている方法だから、その方法で計画的に贈与をしていけば、財産相続を三代続ければ、後に家には何も残らなかったということはない。』と言っていました。
 そして、家の経済の収支に関する帳簿類を渡されたのは、私たちの結婚する3年前の25歳の時でしたから、結婚後は直ちに2人で相談しながら自主運営の生活を保ってきました。」
 **さんは、「このようなケ-スは、畑野川では珍しい事例です。それは計画的に物を進める先代の考えによるもので、相続等についても、無理のないよう、新しい世代への代替わりを理想的に進めてきました。そういう環境の中で若い人は育っていくんだと思います。」と追加する。
 **家の日常生活では、50aの水田農業を、**さんのお母さんと奥さんが受け持ち、米・野菜などの日常食は、ほとんど自家生産でまかなえる。農林業複合の多い畑野川集落では(写真1-2-21参照)林業の仕事は男性、農繁期を除いた日常の農作業は女性が担当する家が多いという。「それじゃあ、このあたりの主婦はあくせくしなくとも、ゆったりとした生活ができますね。」と水を向けると、**さんは「そんな事はないですね。それに、子やらい(子育て)がプラスするんですから……。私の家内も同じ畑野川育ちなのですが『**家の嫁じゃなくて、**の嫁に来てくれと言われて来てみれば、あれは間違いで、家の重みがどっしり乗っかっとった。これにはだまされた。』と言っとります。」と笑いながら話す顔を見れば、その言葉とは裏腹に、いかにも明るく幸せな生活の響きがある。
 「林業経営では、自分の自由な時間を自分でコントロールできるので、それが魅力じゃないかと思います。とくに農業よりも時間的な幅がありますからね……。かりに農業だったら、どうしても『今やらなければいけん』という仕事がありますが、林業には、それほど差し迫ったことが少ないので、心にゆとりが生まれると思います。」と語る。

写真1-2-16 手入れのいきとどいた美林(久万町下畑野川にて)

写真1-2-16 手入れのいきとどいた美林(久万町下畑野川にて)

平成5年10月撮影

写真1-2-17 三世代にわたり植付年代の違う複層林

写真1-2-17 三世代にわたり植付年代の違う複層林

平成5年11月撮影

写真1-2-20 人工絞り丸太作り(シュボ巻き)

写真1-2-20 人工絞り丸太作り(シュボ巻き)

平成5年11月撮影

写真1-2-21 収穫の終わった下畑野川の水田

写真1-2-21 収穫の終わった下畑野川の水田

平成5年12月撮影