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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(3)法正林(*11)を誇りに

 **さん(面河村渋草 大正15年生まれ 67歳)
 「から(柄)は小さいのに向こう意気は強かったです。父親には元気な息子として、兄や弟よりも目をかけてもらいよりましたわい。」といい、「けんかをしてもあまり負けたことはなかったんです。食いついてでも、こたわなんだら石投げてでも、どんなにしてもハッハッ勝たにゃきかんというて。」と大笑する。「そういう性格の者は地方でのくらしには向かんが軍隊では受けますんでな。」という現役志願兵は、昭和18年10月に高知の連隊に入隊した。18歳であった。翌年の19年3月半ばに、調達した中国船フセイ丸に乗って台湾海峡を南進中アメリカ軍の飛行機に爆撃されて船は沈没した。同期の700人余は海に投げだされ、砲艦宇治に救助されてウースンへ帰ったのは24人だけであった。

 ア 犬かきで逃げる

 「船舶をアメリカ機が襲撃するのはいつも食事時で、ちょうどお昼の飯ごうを開けた時じゃったんですがな。ノースアメリカンという双胴機がものすごい低空でザーッと来て、ダダダダとやって通り過ぎたんで、何のことはない護衛艦も何隻かついとったし、帰るん忘れとったんぞよいよったら、ひっくり返して来ましてな。今度はまともに当たりましてな、12、3分の間に沈んだんじゃろと思うんですが、僕はよっぽど運がええ。」と思ったのは、甲板で昼食をとろうとしたことで、「船倉でご飯食べよった人は出るまもどうするまもなかった」12、3分の出来事だったという。筏(いかだ)が流れてきたこともよかった。
 当時、船舶には、目的地に行き着くものがほとんどないので、竹で枡のように組んだ筏を甲板に積んであった。乗船訓練の際に教わった「とにかく(船が)沈んだら、早うに逃げなんだら渦に巻き込まれるから、早く逃げないかん。」ことが頭にひらめいて、「僕らはクロールでない犬かきじゃったけん、一所懸命犬かき泳ぎで逃げまして、見たらちょうど筏が流れてきたもんですけん、いっつもつけとりました縄でからだをくくりつけておったんです。」と。子供のころに面河川で会得した「犬かき」で命を拾ったのである。

 イ 二人羽織と『渓流の叫び』~青年団副団長としての活動~

 「中組で、面河村青年団の副団長をさしてもろとりまして、こちらへきてからも副団長を続けてさしてもろとったんですが、結婚するのと同時にやめました。」と、青年団長を目の前にして引退した悔しさが顔に出る。「こりゃ、子供を育てたこともない両親には気に入るまいと思いましてな。」という。 23歳であった。
 「お祭りやお正月いうと、その時分映画もありませんし、よそから芝居者が回ってくることも終戦直後はありませんし、青年団がやらないかんので芝居をなハッハッ。」と回想しながら「二人羽織」を語るのであった。軍隊の慰安会で見たものを見覚えでやったという。「そしたら面白うでけたいうてな、手をどんどんたたいてもろたりしまして有頂天になったりしましたわい。」と。台本は**副団長さんが書いたことはいうまでもない。戦前には久万から面河にかけて、村々の祭りや正月には旅役者の一座が小屋掛けをしたことが記されている(⑥)。
 「あのころ(終戦後)はどこでもここでも青年団の団誌とか、どこそこの組合の誌報じゃとかいうのは流行みたいで、ガリ版で刷って冊子で出しよりましたわい。青年団では『渓流の叫び』という団誌を発行しよりましてな。」という『渓流の叫び』には忘れられない思い出があるのだ。
 「2月1日付をもって、マッカーサー司令部がゼネスト計画をぴったり止めたのを批判した文章を書いて載せとりましたがな、当時の小学校の校長さんがえらい気に入ってくれて、なかなかあんた新聞見てよう勉強しとるじゃないかといわれましてな。」と語る。ガリ版印刷(謄写版)は小学校にあるだけで、それを借りてはせっせと刷り続けたのである。副団長2年間は継続して10回くらいは発行したのだという。「校正をするでもなく、出たままを針金がいがんだような字で書きましてな、それを読んでもらわないかんのじゃけん(読まされる方は)骨が折れたと思いますがハッハッ……、それでもへら(そば、まわり)に新聞以外には雑誌なんかもないんですけん、こう、見てもらいましたわい。」とわずかの期間ではあったが、悔いのない青春時代だった。
 昭和21年2月に復員し(20歳)、面河村から一緒に出征していた10人ほどの、戦病死された遺族や船便で遅れて帰る留守宅を訪ね、「こうこうで亡くなられました。誠に申し訳ないと報告するのはつらかった。」と述懐する。家業の農業を手伝いながら2年余の青年団活動を続け、青年団の陸上競技大会では800m走で優勝し、芝居もやれば踊りもやり、団誌の発行にも当たるという活躍ぶりであった。
 23歳で**家に入って結婚、24歳で農業委員会の1号議員に選ばれている。「たんぼもちょっぽり当てたり、畑もちょっぽり当てたりで、ほとんどはこういう地形ですけん切り替え畑が主で、それを貸しとるくらいの小さな地主ですけん。」という自作農は林業との兼業である。若いころからの努力と見聞がエネルギーとなって蓄積されたのであろうか、子育ての期間が終ると50歳で村会議員に出る。「本当に巡り合わせがよくなければチャンスがありませんけんね、有り難いことですわい。」という県の町村議長会長を務めることになるのである。

 ウ 法正林に誇りを持って

 「林業でも、法正林を完全にやっとるというのは僕の誇りですけん、はい。」という。自慢くさくなって恐縮じゃがとことわって語る**さんの林業は以下のようであった。
 「ここに住んどるんじゃけん竹材もなけりゃいかん、松材もなけりゃいかん、桧材もなけりゃいかんし雑木材もなけりゃいかん。これが、均衡がとれるようにやっとかないかん思いましてな、努力はしたんですのよ。」といい、さらに「僕らよりもはるかに面積の多い人が何人かおいでるけんど、やっぱり片寄っとりますけんな。はい。一つの松林(まつばい)じゃとか楢林(ならばい)じゃとかいったような林で形づくったのは見受けんですな、均衡というのが一番大事じゃと思います。僕らの考えは古いかも知れませんが、経営じゃなしに生業という部類の林業です。」と力がはいる。「何の木でも、面河にある木じゃったらないものはない。」と言い切る。必要な材木をすべて賄えるのはすばらしいことだと感心してつい口がすべり、先代からも植えてもらっていたかと聞くと、「そのような特殊な木は植えるのではなく、生えたものを切らずに残しておくんです。ケヤキやマツは植えるものじゃない。ナラなんかは切って放っておけば生えるんですけんな、本当に美林というか落ち着きのある林になるんですけんな。」と植える木・生える木を教わるのであった。
 **さんはシイタケ栽培(干しシイタケ)をやっており、原木はもちろん自分の山で切る。案内してもらったナラを主体とした雑木林(写真1-1-10参照)は、スギ林と違って潤いがある。なるほど切らずに残したヤマザクラの40年ものが、コナラに混じって気持ちよく伸びている。すぐ上は開けていてヒノキ(上光2号)の幼木がみずみずしい。スギを約1ha切った跡である。5年生の幼木かと聞くと、「3年です。上光2号は伸びる勢いが違うんです。」と得意満面、巻き付いたつるを丁寧に除く。アカマツの立派なのを見て感心していると大したことはないという。建築材に切るよりも、そのままにしておきたいような成木である。
 雑木林のすぐ近くにシイタケのホダ場がある。軽く1万本といってのける原木は一見して大木は使っていない。元気盛りのコナラを選んで切ったのであろう。盆明けの暑い日差しを遮断するヒノキの美林の下で「秋子」は眼り続けているようだ(写真1-1-11参照)。
 「僕のように、ここに住んどって、目を込んで(細心の目配りをして)、シイタケを作って所得をあげるんじゃったら楽なんです。これが一番ええ。人目にもつかずにお金がはいるようになっとる。ほとんどの農林産物が国で決めた料金でしか売れんけど、シイタケじゃったら、干して囲うといたら、自分のつけた値段で買うてくれにゃ売らんようにできる。」から経営としては堅いのだという。そして、用材のスギなどが太るまでの所得を補う意味からもシイタケの兼業が望ましいと主張する。「経済林でやっていく方法もあるから一概には言えんけんど、林業を経営する上で大切な考え方じゃと思います。はい。」と自信に満ちている。
 4人の子供さんをみんな4年制の大学に入れた。「学校出すまでは一切山の木は切らなんだ。」という**さんは、奥さんともども大変な働き者で、1.8haのたんぼも作った。しかし、「家内に無理がいくし、息子が帰ってきてもたんぼやんかは作らせんけん。」と来春はまたスギを2aほど植えるらしい。
 「60haの山じゃけん、毎年1haずつ切ったとしても、60年目には木は太っとる。林の均衡を図りながら年々一定の所得があがるように、僕は法正林を誇りとしてやってきとります。子供も期待どおり頑張ってくれましたし、長男が定年になったら帰って家の番はするということになっとりますけん。」という顔は生き生きとして、希望に燃える若者のようである。
 「わたしとこは家訓みたいになっとりまして『支出し』をしません。」というのは財産の分譲のことであった。「支出しいうのをしたら、本家も支出しも生活できんようになるけん、家は長男に譲って分散はせんいうて、ず一っとやっとりますけん。」と語る口調には、息子さんにバトンタッチするまでの責任と決意も感じられる。
 久万町菅生の愛媛県林業試験場を訪ねたとき、研究指導室の上田室長さんが、「法正林ですか、それはわたしどもが勧めている理想的な林業経営です。すばらしいことですね。」といわれた。渋草の**さんは、「また始まった。」と友人にいわれながらも、法正林に夢と誇りを感じながら生き続けるのである。


*11 : 各樹齢の立木を同面積ずつ含み、毎年同量の収穫ができるようにした森林。

写真1-1-10 しいたけ原木のナラ林

写真1-1-10 しいたけ原木のナラ林

平成5年11月撮影

写真1-1-11 ホダ場とヒノキの美林

写真1-1-11 ホダ場とヒノキの美林

平成5年8月撮影