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県境山間部の生活文化(平成5年度)

(1)国有林と苦楽をともに

 **さん(面河村若山 昭和10年生まれ 58歳)

 ア 厳しい若山組の保護規約

 大正時代の国有林保護規約書が**さんの家に保存されていた。「どうしてうちにあるのかは分からん。」と見せてもらった規約書は12か条から成っている。
 規約者の23番目に**と署名なつ印がある。**さんの祖父である。**家は大正以降**さん・**さん・**さんと続くのであるが、父親の**さんからは親子2代にわたる営林署職員で、正しくは高知営林局松山営林署基幹作業職員である。
 「若山は、関門も入れて43戸じゃけんなぁ。」としみじみ語る**さんの脳裏には、規約者82人の祖父の時代に比べて、過疎化が進んだ若山地区の現状が淋しく浮かんだようだ。

  木を荷ふ 荒き仕事に 薄もみぢ     松本たかし

 それにしても厳しい規約書である。面河川沿いの最も奥深い若山地域は、急峻な傾斜地が渓谷の両側から迫って平坦な土地はほとんどなく、農業は成り立たない。仰げば山また山、青い空は細長く帯状にしか見えないこの地域では、国有林とのかかわりがくらしそのものであったようだ。「そうせなんだら食べていけん。」という山のくらしの中で、みんなが生きていくために、厳しいけれど署名したのだと**さんは説明する。
 第三條の消防、第四條の窃取等の禁止は当然のことであるが、第五條の人夫確保では父親も随分苦労したという。植林はまだしも、下刈作業はかこくな労働であった。さらに第六條では、除名と交際拒絶で規約の履行を迫っている。

 イ 遊びを通して身についた技

 頭領(とうりょう)を父親にもつ**さんの家では、2人の兄に加えて、小学校を出たばかりの**さんも当てにされていた。
 昭和16年に国民学校へ入学した(写真1-1-2参照)。学校時代を語る**さんのことばは食糧生産と勤労奉仕が多く、戦中・戦後の小学校時代は親も子供も食べることに必死であった。
 「学校へ行っても(勉強はせずに)食糧づくりやるんです。」という芋づくりは、運動場の固いところを掘り返してサツマイモを植え付ける作業であった。ダイズもまいた。「グランドのまわりだけちょっとおいて、真ん中へ植えた。なんぼか僕らも食うたけんど、ほとんど先生の主食じゃったんじゃろ。山も切りひらいてサツマイモづくりをしました。」という。当時は山も里も同じように芋で飢えをしのいだ。
 「たんぴょう(炭俵)よりもちょっと背が高いくらいで、上の部落の方から運んだんです。僕らもこんまい方じゃけん、炭俵が歩きよるようなもんじゃったろ。」と笑う。木炭運びなど5年生以上が行う勤労奉仕にも4年生の時から狩り出され、炭俵を縦に背負って運んだ。
 焼畑跡地の畑仕事や家族全員の作業分担で行う炭焼きなどの生業をはじめ、子供の遊びとしての川の漁や山菜取りに至るまで、山で生きるための多くの技を遊びの中で身につけていく。
 昭和22年3月に小学校を卒業した。渋草(しぶくさ)まで11kmの道のりを徒歩で中学校まで行く子は成(なる)地区にはいない。「一時仕事が無くて、猿飛谷(さるとびだに)の炭屋さんへ通ったこともある。炭焼きを手伝うたんですが、こつを覚えるのが大変じゃった。」というものの、仕事の下地は既にできていた。ナラ・クヌギ・カシの、名の通った炭を焼いていたという。

 ウ 方向よし!上方よし!退避場所よし!

 面河担当区の事業所(*1)ができた。昭和29年、**さんは19歳になっていた。父親に連れられ、月庸いとして作業員になった。定年退職まで2年あまりだが無事に全うできたら42年営林署へ勤めたことになるという。担当地区へ移ってから別の仕事もしているが、ほとんどは造林・伐倒に従事し、季節によって作業内容はほぼ決まっていたようだ。当初は古い道具を使用した(写真1-1-4参照)。
 「事業所の方は出たんです。もう3、4年になるかな。それで担当区(*2)の方へ回って、小田深山では6月1日から8月いっぱいは下刈り。9月から10月・11月には地(じ)ごしらえ(木を植えるための整地)。それから除伐(じょばつ)があらいね。10年~12年生くらいになったらスギ・ヒノキ以外の木を切るわけです。これが遅れると他の樹種が勝(まさ)ってね、いかんのです。つるが絡むと折れるし。冬季はこの除伐よね。だんだん高齢化するし、仕事がきついと人も少のうなって。この一番大事な時に除伐が遅れとるんです、国有林だけでなく民有林も。」という。
 「まず、切る本の周囲をかたづめて(片付けて)、つるがあったら除(の)け、木があったら除けして、作業しやすいようにしといて。」と語り始めた伐倒(ばっとう)の様子は、プラットホームの駅長さんと全く同じで「指さし呼称」と呼ぶ。「まあ、一番に伐倒方向、木を倒す方向に人はおらんか、立ち入ってないか(*3)。それから上方を確認して、つるがらみはないか、懸かり木はないか。そして自分の退避場所、逃げる所よね。『方向よし!上方よし!退避場所よし!』と徹底してやりよるんです。」と。なるほど安全確認は伐倒も列車も同じはずだ。
 「昔はね、柚(そま)さん(木を切る人)は声をかけて。『行くぞー!』と。これは山の神にも伝え、人に知らすためにも大声でおらんだ(叫んだ)といわれとります。」さらに、「斜下山(ななめしたやま)に行く(*4)ぞ!」とか「逆(さか)山に行くぞ!」とか柚さんは全員やっていたという。「行くぞ!」と予告をしたあと笛を吹くことになっていた。一つ吹くと「行くぞ」、二つ吹くと「いよいよ行くぞ」で、終ったことは「呼び子」を吹いて知らせた。「これは山の神さんにも知らすんぞ。」と**さんはよく聞かされたという。

 エ 鳥と蛇は大事にせないかん~動物たちの益と害~

 造林は**さんの専門である。元松山営林署長の**さん(大正6年生まれ 76歳)が、「よくぞ親子が」と絶賛する**・**さんの親子は、仕事熱心で信頼のおける、人間的にも立派な人物であったようだ。「**君には造林(*5)と保護の仕事をまかせていた。」と元署長はいう。専門の造林はもとより、多方面にわたる**さんの熱心さを**さんは次のように語った。
 「もう1人集材をする人でいい人がいたんですが、今までの機械に飽き足らずもっと便利なものにしなくちゃいかんということになりました。その時に**さんは、畳糸に種油(たねあぶら)をつけて、きせるのがん首に縛り付けて何回も実験したんです。」という集材用機械の操作は自分の専門外であった。「家へ帰ってからこれをやりましてね、糸巻に何回巻いたら材がどの方向を向くかと綿密に実験を繰り返しましてね。機械を発案したんですよ。本人は嫌がったんですが学会で発表したんです。」と。
 また、「珍しい植物を小田深山で見つけたというので、面河の山へも1株植えておくようにいっておいたんですが、一向に返事がないので2、3年経ってから、あれはどうなったのか尋ねますと、『無事に育っている。しかし、山へ移すと周りの植物が嫌がらんじゃろうか?』というんです。そのくらい慎重だし、気配りをするんですよ。」と。
 **さんが「もう恐らくね、造林作業する人おらんでしょ。」というのは後継者問題であるが、一つの理由は下刈作業の厳しさ(*6)にもあるようだ。「毎日毎日。それが目に見えん仕事でね、造林じゃのいうのは。必ず木を植えたけん奇麗な林になるかというとそうじゃない。野ねずみに食われるとか、ちょっと高い所へ行ったら寒枯れがあるとかね。」というので、どんなことかと尋ねてみた。
 寒枯れは土壌の氷結と風によって起こる。「風に吹かれると苗木が揺れて、反動でぐるぐる回るようになる。すると土との間にすき間ができる。そのうちすき間はだんだん大きくなっていく。雪がすっぽり包んでくれるとええんです、雪の中にある間はかまんのですが、雪が少のうて風が来たわいいうたらいけんのです。」という話の中身は次のようなことであった。
 一つは、土とのすき聞かできて凍結が起こると、ぐるぐる回る木は硬いすき間の縁との接触で樹皮がむけていく。樹皮には大切な養分の通路があるから、ここが擦り切れると枯れてしまうわけだ。病虫害によるよりも寒枯れが多く、これは防ぎようがないという。
 「北西の向きの山は」と語る「向き」も、考えてみれば、県境の分水れいによって面河担当区には北西に向く山が多くなるわけだ。山の高さもさることながら、北西の強い風を受ける。この山では「植えて4年生・5年生になったころに、1mくらいの幼木の上部が枯れていくんです。雪で包まれた下部は保護されて、寒風に吹きさらされた上部は水分を風に持っていかれるそうです。残った下の方から、春になると芽が2本出るんです。これを何回か重ねるうちに4本・5本と芽が出て製品にならんのですよ。」という被害もある。雪はむしろあった方がよい。「雪が少のうて、風が来たわい。」というのが怖いのだ。
 現在は防風保護樹帯を大きい山(森林)・広い山にはおいているので、以前に比べると風害は減ってきたという。
 「面河の山はスミスネズミが多い。」という。「アカネズミもぼっちりおって、畑へ出るのはハタネズミで尻尾の長い分よね。ヒメモグラも出るが、焼畑でダイズなんかを食うたのはハタネズミじゃった。」というネズミによる被害もある。
 「面河のササが枯れる前の年に異状があった(*7)。ササの全体の色が変ったんです。それで京都大学の先生に見てもろたら、『こりゃ実がなる。』というので山の連中が知ったんです。」という騒動では、ネズミの被害のこともあったが、一番心配したのは山火事であった。「ササが一面に枯れてしもたから、煙草の火でも大事(おおごと)になるけんね。道の各所へ間隔をおいてね、1斗缶を置いて、(吸い殼を)ここへ入れてくれと書き添えてね。」という防火対策をとった。大事に至らなかったという。「ササの実は緑色(青緑色)をしたコメ粒より少し大き目のができる。スミスネズミにとってはごちそうですわい。」と苦笑して、ササの実による異状繁殖のことやネズミを食べる夕力・ヘビに話が進み、食物連鎖による生態系の平衡について語り合った。「食べる物が無くなってくると、苗木や幼木に害を加える。」のである。山守りの体験から出てくることばには説得力があった。
 「鳥と蛇は大事にせないかんと昔からいわいね。」といって次の話があった。やはり造林に係わるものである。
 「ネズミ(退治)は毒餌でやるとか、おす(*8)いうてね、板がぱたんと落ちるようになっとる仕掛けを使いましたわい。毒餌が無いときは仕掛けを何十と作ってね、1haにいくらと間隔をおいてね。そしたら2、3か所全然捕れん所があるんですよ。なんぼ行ってみても捕れん。捕れんというのは(ネズミが)おらんのですよ。そこへ降りてみたらね、夜鳥(よとり)(フクロウ)やね、夕力がそこらあたりに住んで子を育てとらいね。天敵ちゅうもんが大事なことが分からいね。ヘビも生きたものしか食わないな、ほとんどはネズミでしょ。」と同意を求める。
 焼畑の火入れについても似たような話があった。
 「点火する所へ石を祭って、手を合わして拝んで。いりこでもあったら供えてね。」という山の神への祈りのあと、「飛べるものは飛んで逃げいよ!はうものはほうて逃げいよ!」と必ず言って点火した。
 山守りたちは森林のことを「やま」と呼ぶ。森林に生きる人々が、神に祈り神に感謝しながら、森林にすむ生きものへの優しさを示す姿である。森林によって生かされているという謙虚さが、時代を超えて山守りたちの心の中に受け継がれてきたのである。            
 西口親雄氏は『アマチュア森林学のすすめ(②)』の中で、森ネズミを草原ネズミと区分して、アカネズミやヒメネズミの仲間(ネズミ亜科)、すなわち森ネズミは樹林内にすみ、地上をピョンピョンとび歩く。ヒメネズミは森林性が強く、木登りもうまい。尾は長く体長と同じくらいある。体が露出するため、フクロウや小型の夕力類にねらわれる。耳と目が大きいのは天敵を警戒している証拠だ。この仲間は木の実や昆虫を食べ樹木をかじらない。だから森に害を与えることはない。むしろ、地中で越冬しているハバチ類をよく捕食するので、森にとっては有益な存在といえると弁護している。
 植林苗をかじるノウサギも厄介である。ノウサギはタラノキが大好物であるが、スギ・ヒノキの苗木も好んでかじる。
 樹木に対する食害は、野草が枯れてしまう冬に発生する。雪のしまる2、3月になると被害は急に増えてくる。西口氏によれば、春が近付いて樹木の樹液流動がはじまり、樹皮に糖分が増えてくるためではないかという。林業家の中には忌避剤を塗って防除している人もいる(②)。
 ノウサギを狩るのはキツネと大型のワシ・夕力の類である。中でもイヌワシとクマタカが双へきであるが、面河・石鎚山系ではクマタカも数が減ったという。
 ブナ林をはじめ落葉広葉樹林の下では、タラノキやヤマハギなどのかん木や野草が繁茂して、ノウサギの食料が確保される。スギの植林地が若い間はよいが、スギが成長して林冠が閉鎖するようになると、林床には光が届かなくなるため野草やかん木は減少する。食料不足になったノウサギは、植林苗をかじるという皮肉な巡り合わせとなる。「植林も環境破壊よな。」とつぶやいた**さんのことばは印象的であった。

 オ 丑寅の風は怖い

 昭和の時代で最大の事件は何であったかを尋ねた。即座に、口をついてでたのは枕崎台風(*9)であった。それも、赤痢が流行して、弟さんを失ったときの台風災害である。
 「おやじが40歳のころでね、あのころの親は大変じゃっとろうね。」というのは食べ物のことであった。「台風が過ぎた時なんかも、一つも食うもんがない。でも僕らはまだよかった。」というのは、子供のない叔父夫婦に食糧の蓄えがあり、そこで食べさせてもらうことができた。「その時には穀物の倉が流されて、流れる穀物を拾うたり、土砂で埋もった野菜を掘り起こして飢えをしのいだんです。おかずいうたら川魚よね。刺し身で食べた人が赤痢になって。伝染病対策の知識もないし、薬は何もないし、腹が痛かったら、ただ暖めてやるくらいのもので。」というのが昭和20年の終戦当時の状況であった。「なにも薬というものはないし、死ぬのを待つようなものだった。」という。「そのうち弟が下痢をしだして、久万へ行って医者にみせたら赤痢じゃということで。おやじはまあ、すぐに隔離したけん1人ですんだけど、家によったら3人も死んだ。役場に記録があると思うが15人くらい死んだんじゃなかろうか。今じゃったら部落総出で葬式するけど、疫病じゃったけん誰も立ち寄らん状態で、板がのうて(部屋の)敷板をあげて、棺おけ作って埋めたんです。当時子供(4年生)じゃったけど生きた心地はしなかった。」という。赤痢が発生しているところへ枕崎台風が襲ったものであった。「台風で雨が降ったら、便所いうたて野つぼと同じじゃけん。」という非衛生的な環境である。
 「盆東風(ぼんごち)いうて、お盆のころに太平洋高気圧が張り出したら気を付けないかん。大体丑寅(うしとら)いうてね、方向があるのよ。」というこの季節の台風が、昔から面河では恐れられている。台風の中心が東側を通るコースで、丑寅(北東)にある時に一番強い風が吹くのだ。その上、枕崎台風は1,000mmを越す大雨を降らせた。笠方の雨量計(1,000mmまで)では計れなかったようだ。「方々の橋が流れて、急斜面の畑(焼畑跡地)も流されてね、あちこちで崩壊があったんですよ。」という。
 「あのころは見渡す限りはげ山じゃった。食糧作るので山を拓(ひら)いたし、木炭作りで雑木林は切るでしょう。今は山に木がある関係か風も弱い。あれほどひどい風は今は吹かんし、大雨が降ったいうてもあれはどの水は出んけん、考えてみると山の木というものは大事よな。」と森林の重要さを説くのであった。ちなみに枕崎台風の、松山における瞬間最大風速をみると42.1SSE(南南東の風42.1m/s『愛媛の気象百年(③)』)とあり、面河のはげ山を吹き荒れたすごさがわかる。
 枕崎台風が襲来した昭和20年は、面河の里山ははげ山ばかりと**さんがいうように、風に対しても雨に対しても全く無防備の状態であった。
 **さんは、枕崎台風の締めくくりに、暗くなってから起こった崩壊の怖さを次のように語った。
 「当時は電気はおろか懐中電灯も無かったけんね。おやじはどこで蓄えとったかカーバイドのガス灯を持っておったんです。その時は、カーバイドをつけてあちこちしよったんですが、叔父さんとこがもう流れるいうてね。僕らは出てみたら、夜目にかすかに見えたがね。上から水が流れてきよるんよ、こっちへね。闇を透かして見ると、水がこっちへ越えてくるような感じがしてね、ゴーゴー音がしよったけんね。おふくろが『逃げよう!』と手を引っ張った。暗さもあって怖々逃げたが、どこをどう歩いたか分からぬ。」という。
 「崩壊は山津波いうんじゃなしに、だらだら流れてきた感じでした。谷が小さかったから(土砂)を全体に分けたもんじゃろね。家を押し流すほどではなかったんですが、家の壁は押し破られて、流れ込んだ土砂で家の中に小山ができた。関門の旅館なんかは、裏から土砂が流れ込んで玄関へたまっとりました。」と。


*1:面河製品事業所が小田製品事業所から分かれてできた。現在はまた小田へ統合されている。
*2:現在は森林事務所。
*3:木の高さの1.5倍の範囲内に人がいるときは倒さない。
*4:傾斜地では、造林木は上方へ倒し(枯らすため)、天然木は下ヘハの字に倒す(滑らせないため)という。
*5:面河製品事業所の造林手として採用された。
*6:夏の暑さに加え、虫除け(木の空洞に巣を作る赤みがかったししばちは痛い)の衣服ですごい汗をかく。落石の危険もあ
  る。
*7:昭和40年(1965年)。
*8:ねずみおすのことで「とびすずめ」という。トウモロコシを餌にした。1昼夜水にひたして軟らかくしたトウモロコシの
  実を2・3粒竹ひごに刺して取り付けた。他にいたちおす、くまおすなどもある。
*9:昭和20年9月16日~17日。

写真1-1-2 面河小学校は統合され少年自然の家になる

写真1-1-2 面河小学校は統合され少年自然の家になる

平成5年11月撮影

写真1-1-4 チェーンソー導入まで使用した杣(そま)道具

写真1-1-4 チェーンソー導入まで使用した杣(そま)道具

平成5年12月撮影