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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 漁業出稼ぎ

(1)韓国出漁

 ア 韓国出漁の草分け

 明治41年(1908年)発行の『愛媛県遠海出漁団体連合会報』(第1号)に組合設置の趣旨が述べられ、その冒頭に「我が愛媛県における遠海出漁は、明治14年、西宇和郡三崎村の漁民が、東京府在籍近松某に雇われ、採鮑(さいほう)業を以て韓国鬱陵島(うつりょうとう)に出漁したるに起源し、爾来(じらい)、その成績に鑑みこの方面よりは逐年通漁者を増加すると共に、その声望各地に伝わり漸くこの事業の有利なることを覚り、明治24年においては云々」と記されているように、愛媛漁民の韓国出漁は、明治14年(1881年)、三崎村串(くし)の海士がアワビ採取のため韓国鬱陵島に出漁したのに始まる。
 その時の成績が良好であったため、翌明治15年には各自の営業として、前年の15名の他10数人が出漁し、多くの利益をあげた。それに刺激された三崎海士は、江原・慶南・全羅各道沿岸に通漁するようになった(㉝)。
 韓国出漁の草分けとされる明治14、15年のこの時期は、明治9年(1876年)3月、日朝修好条規が締結され、国交の回復・通商の再開は行われていたものの、この修好条規には、漁業に関する条約はなく、明治16年(1883年)7月締結の日朝貿易規則第41款実施までは、密漁だったのである。その第41款は、次のように定められていた(㉞)。
 「第41款 日本国漁船は、朝鮮国全羅・慶尚・江原・咸鏡の4道、朝鮮国漁船は、日本国肥前(ひぜん)・筑前(ちくぜん)・長門(ながと)(日本海に面するところ)・石見(いわみ)・出雲(いずも)・対馬(つしま)の海浜に往来、捕魚するを聴(ゆる)すといえども、私に貨物を以て貿易するを許さず。(以下略)」
 明治16年7月に締結された日朝貿易規則第41款の施行細則とも言える「日朝両国通漁規則」が明治22年(1889年)11月訂約された。この細則は、免許鑑札の規定、遵守すべき事項、漁業税の納税義務、罰則規定等々が定められ、この条約によって通漁の基準が明確になり、通漁はこの条約の範囲内で可能となる画期的な条約であったとされている(㉟)。

 イ 丸一組による韓国出漁

 加藤太郎松(1857年~1936年)は、明治20年(1887年)31歳の時、丸一組を組織。当時自家用としてしか採取されていなかったサザエの商品化のため丸一組による缶詰製造を開始した。しかし、三崎地区の漁獲だけでは、原料が不足気味となり、乱獲を防ぐため他地域への出漁を計画した。
 明治27年(1894年)、加藤太郎松の丸一組による海士の韓国出漁が開始された。初期の韓国出漁は、丸一組と海士が雇傭関係を結び、丸一組に率いられた集団出漁であった。漁船は5、6tの無動力櫓船(ろせん)、3月から4月初旬に三崎を出発、玄界灘(げんかいなだ)を漕(こ)ぎわたり、約25日遅くとも1か月で韓国の基地に到着していた。現地で約5か月間漁撈(ぎょろう)に従事、9月から10月初旬に帰村した。水揚げされたアワビ・サザエは、現地で売買されていた。
 明治32年(1899年)から丸一組は韓国で缶詰を製造することになるが、水揚げされるアワビ・サザエが缶詰として製造されるようになると、漁民自体による出漁が開始され、毎年20隻以上、200名前後の漁民が出漁するようになった(㊱)。

 ウ 遠洋漁業の政策

 国は、明治30年(1897年)3月31日、遠洋漁業奨励法を制定し、「遠洋漁業を奨励するため、国庫は毎年度15万円以内を支出すべしとし、遠洋漁業奨励金を受けるべき漁猟の場所は、支那海、台湾海峡、東海、黄海、朝鮮海峡、日本海、オホーツク海、太平洋」と定めた。
 これに先立ち愛媛県は、明治30年3月5日愛媛県告示により、遠海出漁奨励のため出漁中の食料を補助することを決めている。そして、国の遠洋漁業奨励法を受ける形で、明治32年3月、遠海漁業奨励補助規程を定め、続いて翌明治33年1月、遠海漁船補助規程を定めた。この遠海漁船補助規程は、明治38年(1905年)4月廃止された。

 エ 個人から団体へ政策転換

 明治37年(1904年)日韓漁業条約改定によって通漁区域が朝鮮半島全体に拡張されると、各府県が積極的に通漁を奨励することとなる。
 愛媛県は明治38年4月、遠海漁業奨励補助規程を制定した。これは、補助金の出し方を一新し、従来の個人主義を廃し、組合などの団体の助成に改め、出漁者の自治心を養成し、その基礎を堅固ならしめるにあった。この補助の受け皿として、県下各地に信用組合又は出漁組合(同盟)が結成され、その統括として愛媛県遠海出漁団体連合会が設立された(㊴)。

 オ 出漁状況の事例

 明治40年(1907年)2月20日付、三崎信用組合理事長加藤太郎松から愛媛県知事安藤謙介宛に出された、遠洋漁業奨励補助に関する明治38年度の韓国出漁状況報告書の写しを次に掲げる。

    韓国出漁状況報告写(㊷)
 明治38年4月愛媛県令第29号遠洋漁業奨励補助規定第6条による38年韓国出漁状況報告

1 組合員の出漁船数及人員 30艘 180人

2 出漁の場所根拠地及出漁日数
  場  所 黄原道の内チャヲリ近海、慶尚道尉山方面より釜山近海並に巨済島近海、全羅道の内安嶋、生日嶋、小安嶋、
       珍島、黒山島、忠清道沿岸
  根拠地  釜山、尉山、巨済島、安島、生日島、小安島、珍島、黒山島
  出漁日数 3月下旬出帆 10月中旬帰国

3 出漁中の状況
  出漁中は飲食起居すべて船住居にて、降雨或は海上の荒れたるときの外休業することなく何れも熱心に業を執れり

4 漁獲物及製造品の種類、数量、価格及販売向並に販売の方法
  漁 獲 物 鮑
  製造品種類 缶詰
  数   量 46,800貫目
  価   格 36,880円
  内   訳 2,600貫は缶詰に製造し長崎に持帰り清水商人に売り捌く。その代価が26,880円
        ◎ 15,000貫は、仁川魚市場にて売り捌く。その代価5,240円
        ◎ 3,500貫は、釜山にて売り捌く。その代価2,450円
        ◎ 2,300貫は、内地へ持ち帰り、大阪、広島市場にて売り捌く。その代価2,300円

5 出漁中の収支損益及び配当法
  収 入 36,880円
  支 出  9,000円 缶詰製造及運送費
  収入残 22,680円 収益金
  配当法 船30艘 その口数30口 人員180人 その口数180口
      計210口に割り当てて1口に付 平均108円宛
      (船により均一配当るものあり、漁獲高を独立に受くるものあり一定せず)

 以上鮑に対する分

1 組合員の出漁船数及人員 7艘 35名

2 漁業の場所、根拠地及出漁日数
  場所 4艘は全羅道の内 秋子島沿岸 根拠地 秋子島
     3艘は慶尚道釜山近海 根拠地は釜山

3 出漁中状況
  出漁中は飲食起居は船住居 風雨に限らず出漁できうる限りは漁業す

4 漁獲物及製造品の種類、数量、価格及販売向並びに販売方法
  漁獲物 鰤釣り 数量110貫 価格5,700円
   金  5,700円収入 750円食費及雑費 差引4,950円収益
  配当法 船7艘その口数7口 人員35人その口数35口 計42口
      1口平均117円80銭(船により漁獲高均一ならず故に配当一定せず)

右の通候也  明治40年2月20日
       西宇和郡三崎村串
       責任者 三崎信用組合理事長 加藤太郎松
       愛媛県知事 安 藤 謙 介 殿

 カ 韓国出漁の終焉

 韓国水域への通漁は、大正・昭和と継続されたが、昭和12年(1937年)の日中戦争の勃発、その後の戦争の激化にともない、昭和15年ころ中止を余儀なくされ、太平洋戦争の終結、韓国の独立、李承晩(りしょうばん)ラインの設定と相次ぎ、明治中期から大正にかけて盛時を極めた韓国出稼ぎ漁業は完全に終止符を打たれた(㊸)。

(2)伊豆沖出漁

 ア 韓国出漁終焉の後

 三崎村の出稼ぎ漁業は、戦前戦後の混乱期を脱した昭和25年(1950年)ころより、長崎県対馬東面沿岸に、イカ一本釣り、タイ延縄(はえなわ)が出漁を開始する。根拠地を長崎県上県(かみあがた)郡船越(ふなこし)村賀谷(がや)に置き、8隻32名が出漁している。
 昭和30年(1955年)には土佐沖へフグ延縄漁業が出漁開始、昭和34年(1959年)には出漁船17隻を数えている。
 土佐沖のフグ延縄は、漁期が10月から2月までで、3月から9月までが休漁期となる。そのため、漁協指導部は、伊豆沖のメダイ一本釣りを考えるようになった(㊹)。

 イ 伊豆沖の試験的出漁

 昭和32年(1957年)、伊豆沖出漁の試験的出漁が開始された。試験出漁中の漁民はこの間下田(しもだ)港の宿制度を利用して基地としていた。宿制度とは、他県の漁船を世話する制度である。宿は餌(えさ)、漁具、食料等の供給の世話、仕切り金の立て替え、前貸し等も行い、いわば漁業者の溜(た)まり、休憩所、代行事務所の簡単な業務を行い、その代わり水揚(あ)げの2歩を手数料として漁民に負担させていたのである。
 1軒の宿で数隻を受け持つことによって宿は存在し、一方下田市場の仲買人を兼ねている。このような宿が下田港に約15軒、1軒につき、7、8隻から最高20隻の漁船を受け持っていた(㊺)。

 ウ 三崎漁協出張所を下田に開設

 昭和34年(1959年)2月、三崎漁協の加藤益太郎専務は、直接下田に出向き、従来から下田に残る問屋制資本(宿制度)の支配を排除、漁協直轄の出張所を開設、駐在員の配置などの現地交渉に当たった。現地での受け入れ体制を確立し、3月末から6船団が出漁した。本格的出漁である。根拠地・水揚げ地を下田に置き、漁場は大島から八丈島に至る伊豆諸島近海である。この出漁は、漁協の強力な指導と統制下におかれた計画的出漁である。その運営基本方針と協議決定事項は次の通りであったとされている。

   昭和34年度沖合(県外出漁)運営基本方針
1 すべての水揚げは、組合の手を通さなければならない。(出張所開設 系統送金)
2 出漁運転資金は、最小限度でなければならない。(計画出漁 資金統制)
3 漁業操業を合理化せねばならない。(宿制度打破 販売対策 資材供給の共同化 漁場調査)
4 ヒューマン・リレイションの調整とP.R(組合運動の一環としての生活指導[家族と船子の連 絡及生活相談]及水揚げ
 配当金の貯金化)

 以上の原則をたてたのち、つぎのような具体策が決定実施された。

1 下田出張所開設と出漁計画
2 組合と出漁船との関係についての事項の協議決定
(イ)水揚げはすべて組合駐在員が行う。
(ロ)組合の手数料は2歩、宿制度の代行2歩、1歩を加えて3歩とする。
(ハ)船員1ヶ月の小遣いは1ヶ月3千円以内とし、あとは家族送金とする。
(ニ)留守家族は組合(本部)にて生活資金を受け取ることとし、現地より個人送金は原則として行わない。
(ホ)出張所は、燃油、資材の供給を行う。燃油は県漁連のチケットによる。
(ヘ)組合新聞を発行し、組合の動き、現地のニュースの交換を行う。
(ト)船員はすべて共同作業体の一員としての自覚と訓練を行い、組合の方針に従うことに努め違背もしくは統制を乱すものは
  下船せしむ。

 昭和34年(1959年)から始まった計画的出漁は、その後も着実に実績をあげ、漁船の規模も大型化(50~100t)し、出漁船も15隻を数え、水揚げ高も2億1,813万円をあげ、三崎漁業の中で重要な地位を占めるまで発展した。しかしながら、昭和46年度は15隻中7隻が組合の手を離れ独立していった。三崎漁協の強力なバックアップによって成長した出漁船が組合の手を離れ独立自営船になることに対し、漁民の間にも賛否両論があった(㊻)。

 漁業出稼ぎについては、韓国出漁と伊豆沖出漁の二つのテーマに限定し、豪州(オーストラリア)出漁について取り上げることができなかった。しかも、韓国出漁と伊豆沖出漁についても、既存の発表済み論文の調査に限定され、「ふるさと愛媛学」の基本理念である「記憶を記録する」ことが行われていない。これは、筆者自身の能力を超えて手を広げすぎたことに他ならない。出稼ぎに関する歴史は、当初予想したより大きい広がりを持っていたことを痛感している。


<参考引用文献及び注>
①大川健嗣『出稼ぎの経済学』紀伊國屋書店 1994
②昭和22年の調査では、農家とは「世帯員中農業を営む者のある世帯をいい、農業を営むとは、土地を耕作すると否とを問わず、耕種・養蚕・養畜(養蜂を含む)の1又は2以上を業とするものをいうのであるが、水稲を栽培するものは、その面積の大小にかかわらず農家として計上してある。」とされている。この文面では、水稲以外の作物に下限があるのか否か、農業を営むとは、自家消費のための耕種・養畜が含まれるのかが明らかでない。
 昭和25年の世界農業センサスでは、経営耕地面積がA地域1反以上、B地域5畝以上、例外として農業生産物の年間販売額が1万円以上。
 昭和35年の世界農林業センサスからは、経営耕地面積が東日本10a以上、西日本5a以上、例外として農業生産物の年間販売額2万円以上。この時から「農業を営むとは、営利又は自家消費のため耕種・養蚕・養畜並びに自家生産の農産物を原料とする加工。」の規定が設けられた。
 平成2年の世界農林業センサスからは、経営耕地面積が全国統一10a以上、例外として販売額15万円以上と改められた(例外規定は順次引き上げられていた。)。この時、30a以上を販売農家、30a未満を自給農家と区分が設けられたが、本稿においては総農家数の引用に限定している。
③西宇和郡エリアの変化
 西宇和郡双岩村、同郡真穴村、同郡川上村、同郡日土村は、昭和30年2月1日、八幡浜市に編入されたが、西宇和郡双岩村の内大字和泉の全部、布喜川の一部は、既に昭和30年1月1日、西宇和郡三瓶町に合併しているから西宇和郡に残っている。したがって、昭和30年2月1日以前と以後を同じ領域の西宇和郡とすることは不可能なのである。
④『愛媛県統計書 昭和22年調査 農林水産業調査』愛媛県総務部統計課 1949
⑤農林省統計調査部編『市町村別統計表 1950年世界農業センサスNo.38愛媛県』農林統計協会 1956
⑥農林省統計調査部編『臨時農業基本調査市町村別統計表』農林統計協会 1959
⑦農林省統計調査部編『1960年世界農林業センサス 市町村別統計書No.38愛媛県』農林統計協会 1961
⑧農林省統計調査部編『1965年農業センサス 愛媛県統計書』農林統計協会 1966
⑨農林省統計調査部編『1970年世界農林業センサス 愛媛県統計書』農林統計協会 1971
⑩農林省農林経済局統計情報部編『1975年農業センサス 愛媛県統計書』農林統計協会 1976
⑪農林水産省経済局統計情報部編『1980年世界農林業センサス 愛媛県統計書』農林統計協会 1981
⑫農林水産省経済局統計情報部編『1985年農業センサス第1巻 都道府県別統計書38愛媛県』農林統計協会 1986
⑬農林水産省経済局統計情報部編『1990年世界農林業センサス第1巻 愛媛県統計書(農業編)』農林統計協会 1991
⑭農林水産省経済局統計情報部編『1995年農業センサス第1巻 愛媛県統計書』農林統計協会 1996
⑮農林水産省大臣官房統計情報部編『2000年世界農林業センサス 第1巻愛媛県統計書(農業編)』農林統計協会 2002
⑯昭和25年調査の出稼ぎ者の定義「ふだん家にいないで単身で他所にでて、女中、職工、人夫、徒弟 見習をしているもの。」
 昭和45年調査では、出稼ぎとは、通勤できないため自宅以外の場所で寝泊まりし、臨時的に雇われて働くことで、期間の長短は問わない。
 昭和50年調査では、出稼ぎとは、通勤できないため自宅以外の場所に寝泊まりし、臨時的に雇われて働くことである。この場合、期間は原則的には30日以上、1年未満とした。従来は、この期間の長短を問わなかったが、昭和45年度から各種調査における出稼ぎの定義を統一することになり、今回からこのような期間を設けることとした。しかしこのことによって、市町村別統計の連続性が損なわれるほどの影響はあまりないものと思われる。
 昭和55年調査以降では、「専兼業別農家数」が世帯主の兼業種類別に改められたので、従来のデータとの継続性を保つため「家としての主な兼業種類別農家数」からのデータを引用した。
⑰愛媛県総務部統計課『愛媛県統計書 1950年世界農業センサス基本調査』 1951
⑱武智利博「伊予灘断層海岸漁村の研究(2)漁業と他産業の研究」(愛媛県信用漁業協同組合連合会『信漁連通信第11号』 1957)
⑲愛媛県『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 1986
⑳伊方町『伊方町誌』 1987
㉑「愛媛蚕糸業の歩み」発行委員会委員長斎藤則幸編集・発行『愛媛蚕糸業の歩み』2000 
㉒伊方町『町勢要覧「いかた」1970年版』 1970
㉓伊方町『伊方町誌』 1987
㉔宇都宮正義「杜氏と大工とハウスミカン」(『文化愛媛第9号』)
㉕安部若松「伊方杜氏について」(伊方町『広報伊方町 縮刷版』P115 昭和36年8月1日付)
㉖桝田佳明「宇和島藩酒造小史(その三)」(西南四国歴史文化研究会刊『西南四国歴史文化論叢よど第8号』P167 2007)
㉗桝田佳明「宇和島藩酒造小史(その三)」(西南四国歴史文化研究会刊『西南四国歴史文化論叢よど第8号』P169 2007)
㉘桜井宏年『清酒業の歴史と産業組織の研究』P67からP72 中央公論事業出版 1982
㉙この表の出典を伊方町勢要覧としているが、その伊方町勢要覧には、「西宇和郡杜氏組合調べ」とされている。筆者があえて「伊方町勢要覧」としたのは、西宇和郡杜氏組合調べとするには疑問があるからだ。大正9年のデータには「伊方136、町見10、日土21、三机21、矢野崎14」との附け書きがある。これは、データの内訳を示しているのであって、組合の名称が示しているように西宇和郡のデータなのである。ところが、この組合が設立されたのは、大正6年であり、明治末期のデータが西宇和郡のものか、疑問としているのである。可能性としては、明治44年に設立された「伊方杜氏蔵夫組合」の資料からか、明治末期に各村々で作成されている「郷土誌」のいずれかと考える。もしこの二つのどちらかからとられたデータなら、明治末期の数値は、伊方村だけの数値の可能性が高くなる。この表の数値を時系列に見るときは、この点を承知しておいて貰いたい。即ち、明治末期にはもっと多かった可能性があるということである。
㉚小泉和子『桶と樽 脇役の日本史』P2 法政大学出版局 2000
㉛桜井宏年『清酒業の歴史と産業組織の研究』P75 中央公論事業出版 1982
㉜原昌道編集代表『改訂 灘の酒用語集』P418 灘酒研究会 1997  
㉝門田恭一郎『愛媛の農漁業史研究』P228 日本図書刊行会 1989 
㉞吉田敬市『朝鮮水産開発史』P160 朝水会 1954  
㉟吉田敬市『朝鮮水産開発史』P163からP165 朝水会 1954
㊱武智利博「岬の漁業誌(Ⅰ)愛媛県西宇和郡三崎町」(松山東高等学校『昭和47年度研究集録別刷』) 
㊲門田恭一郎『愛媛の農漁業史研究』P241 日本図書刊行会 1989 
㊳門田恭一郎『愛媛の農漁業史研究』P230からP233 日本図書刊行会 1989
㊴門田恭一郎『愛媛の農漁業史研究』P233 日本図書刊行会 1989 
㊵吉田敬市『朝鮮水産開発史』P168からP171 朝水会 1954
㊶愛媛県内務部『愛媛県水産要覧』1914
㊷武智利博「岬の漁業誌(Ⅰ)愛媛県西宇和郡三崎町」(松山東高等学校『昭和47年度研究集録別刷』P6、7)
㊸武智利博「佐田岬半島三崎における出稼漁業の変遷」(『伊豫史談会例会レジュメ』P11 1961)
㊹武智利博「岬の漁業誌(Ⅰ)愛媛県西宇和郡三崎町」(松山東高等学校『昭和47年度研究集録別刷』P7) 
㊺武智利博「佐田岬半島三崎における出稼漁業の変遷」(『伊豫史談会例会レジュメ』P18 1961)
㊻武智利博「岬の漁業誌(Ⅰ)愛媛県西宇和郡三崎町」(松山東高等学校『昭和47年度研究集録別刷』P7、8)