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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 出稼ぎ概観

(1)旧村郷土誌に記された出稼ぎ

 ア 『伊方村郷土誌』

 明治末に作成されたものが存在するはずだが、伊方町立図書館、町見郷土館共に収蔵されていない。

 イ 『町見村郷土誌』[明治45年1月]

一 出稼方面 八幡浜町、川之石村及喜多郡、伊予郡
一 出稼人ノ与フル影響 青年男女及小農者ハ多ク出稼ヲナシ家計ノ一旦ニ供セリ 故ニ経済上彼等ノ与フル影響多大ナリトス

 ウ 『三机村郷土誌稿』[明治44年8月]

5 出稼人 (男245 女195)
 出稼方面 内地ニ於テハ重ニ朝鮮九州東京大阪神戸門司小蔵ニシテ外国ニハ少数ノ米国出稼人アリ移住人寄留人等ハ極小数ニシテ記スルニ足ラズ

 エ 『四ツ浜村郷土誌』[明治45年1月]

5 出稼人
 本村民ハ男女ノ別ナク一般ニ幼ヨリ身体強壮ニシテ能ク労働ニ堪フルヲ以テ男ハ蝋搾ニ女ハ下女又ハ機織等ニ傭ハルヽモノ多ク大工左官等ノ出稼ニ出ヅルモノ亦尠カラズ出稼人ノ職業及人数表左ノ如シ
 出稼人ノ出稼地ハ大洲、八幡浜、宇和島、大坂地方最モ多ク大工ハ主トシテ門司、若松、朝鮮其他諸方面ニ出ヅ
 出稼人カク比較的多キニヨリ金融ヲ多少円滑ニス

 オ 『神松名村郷土誌』[明治44年3月]

 自明治33年至同42年10年間出稼人累年比較調査票

 カ 『三崎村郷土誌』[明治44年12月]

(2)統計で見る昭和後期の出稼ぎ農家

 ここでは、出稼ぎの統計資料として若干の問題はあるけれど、他に好適な資料も見当たらないので一連の農業センサスによることとした。
 一連の農業センサスとは、昭和25年(1950年)2月1日現在で実施された第1回世界農業センサスとそれ以後10年ごとに実施された世界農林業センサス、これを補完するため中間年次に我が国が独自に実施した農業センサスとした。このほか出稼ぎのデータは含まれていないが、戦後最初の統計資料として昭和22年(1947年)農林水産業調査の資料も加えている。
 この一連の農業センサスがとらえている出稼ぎは、主として「出稼ぎを主たる兼業とする農家数」である。従って、一農家に複数の出稼ぎ者がいた場合、家族に出稼ぎ者がいても主たる兼業ではない場合には、とらえられていない。

 ア 出稼ぎ農家の推移

 (ア)総農家数の推移 

 出稼ぎ農家の推移を見る前に総農家数の推移を見ておく必要がある。総農家数の53年間の推移を見ると、伊方町全域で27.1%に減っている。最も激しいのは旧三机村で18.5%に激減している。挙家離村型の人口流出があったことに他ならない。出稼ぎと離村は家族の所在がいずれにあるかの違いであることに留意すべきであろう。

 (イ)出稼ぎ兼業農家数の推移(図表3-2-2、3-2-3参照)

 出稼ぎ兼業農家とは、主たる兼業を出稼ぎとする農家である。農業センサスで経年的に出稼ぎを追えるのは、この出稼ぎ兼業農家数だけであるから、これを以て出稼ぎの推移を見るしかないわけなのだが、これには気をつけたい点がある。世帯員の中に出稼ぎ以外の兼業従事者がいて、出稼ぎ以外の兼業が主の場合には、世帯員の中に出稼ぎ者がいても出稼ぎ兼業農家にはならない。この表を見るとき、最も注意しなければならないことである。例えば、父が漁業、母が農業、娘が女工(工場で働く女子労働者)の場合、娘より父の所得が多ければ、漁業兼業農家となり、出稼ぎ兼業農家にはならないのである。
 出稼ぎの定義については、昭和25年を除き「通勤できないため自宅以外の場所に寝泊まりし、臨時的に雇われて働くこと。」と理解してよさそうである(⑯)。
 出稼ぎ兼業農家の多くのピークは、昭和40年(1965年)から昭和45年(1970年)に見られるが、なぜか三机村だけが昭和45年から昭和50年にずれ込んでいる。

 イ 仕送りをしない出稼ぎ者

 昭和25年(1950年)に実施された第1回世界農業センサスは最初のセンサスだったためか、後々には出てこないこの回限りの「出稼ぎ者のいる農家数」「出稼ぎ者の総数」があり、更に「出稼ぎ者の仕送りの有無」が県集計に限って公表されている(⑰)。図表3-2-4にそのデータを旧村別に示す。
 この表を見て不思議に思うことは、実家に仕送りする出稼ぎ者が意外に少ないということ、及び町見村の1戸あたり出稼ぎ者数が他の地域に比べて異常に高いということである。
 この年に限り出稼ぎ者は「ふだん家にいないで単身で他所に出て、女中、職工、人夫、徒弟見習をしているもの」と定義して調査している。これは、「女中奉公は出稼ぎ者である」と明快に指定しているのである。
 そこで、女中奉公の経験者である、Aさん(昭和10年生まれ)と、Bさん(昭和18年生まれ)の2人に聞き取り調査を行った。2人とも中学校を卒業して直ちに奉公に出て、結婚が決まってから帰ってきたという。奉公先は、Aさんが昭和26年(1951年)に大阪市、Bさんが昭和34年(1959年)に北九州市である。親が自分たちを女中奉公に出したのは、2人とも結婚に備えて、家事・接遇などの教育を受けさせるためで、経済的な理由からではないと認識している。昼間の仕事が少ない時間帯には、洋裁教室に通わせてもらっていたぐらいで、金銭的には、お小遣い程度で実家に送金などとてもできるような額ではなかったという。
 仕送りをしない出稼ぎを考えていて、ふと思い出したことがある。昭和30年前後に生活改善運動の一環として、冠婚葬祭の簡素化が盛んに言われていた。近所のある女性が結婚することになり、三瓶(みかめ)の紡績(ぼうせき)工場を寿退社して故郷へ帰り結婚の準備をした。嫁入り道具を運び込む前日のこと、婦人会の役員さんが訪れ、冠婚葬祭簡素化の趣旨を説明し、準備した荷物は仕方ないので夜間にこっそり運ぶように要請したという。彼女は、「自分が働いてためたお金で、自分で買いそろえた、結婚後必要になると思う品物を、なぜ夜間にこっそり運ばねばならないのか。」と反論したという。この女性も、紡績女工という出稼ぎを行い仕送りはしないで自分のお金として貯蓄していたのである。
 この「女中」「女工」の2例だけでは、仕送りをしないすべての出稼ぎ者の説明にはならない。仕送りをしない男性の出稼ぎ者も存在するからである。そして、町見(まちみ)村の特に高い1戸あたりの出稼ぎ者数の説明もできていない。

 ウ 出稼ぎ仕事の産業分類

 昭和40年(1965年)の農業センサスでは、出稼ぎ兼業農家の出稼ぎ内容が大まかではあるが公表されている。その区分は、農業、林業、漁業、建設業、その他であるが、その内容について考察を試みた。

 (ア)林業

 神松名村では、材木の伐子(きりこ)即ち木山(きやま)出稼ぎとして、名取(なとり)・二名津(ふたなづ)に伝統的に存在していたからその名残と思われる(⑱)。

 (イ)漁業

 三崎村の漁業出稼ぎは、伝統的な出稼ぎである。三机村の漁業出稼ぎは、足成(あしなる)の大阪への出稼ぎや伊方豊之浦(とよのうら)の四ツ張り網の記録が見られる(⑰)。しかし、時期不明のためこの昭和40年の出稼ぎがどこへのものかは不明である。

 (ウ)建設業

 伝統的な出稼ぎとして、大工を郷土誌その他の記録に見ることができる。一方、高度経済成長期の求人の最たるものは、大工を含む土木建築、即ち建設業である。この表の建設業の数値は、いずれの地域も京阪神方面の土木・建築と見て大差はないと思われる。

 (エ)その他

 伊方村に特に多いのは、俗に伊方杜氏(とうじ)と呼ばれる酒造出稼ぎであろう。高度経済成長期の波及的求人によるもう一つの酒造出稼ぎもここに入る。紡績女工など繊維工業への出稼ぎがあったとすればここに入る。

 エ 男女別出稼ぎ者数

 昭和45年(1970年)世界農林業センサスでは、「兼業従事者数」「主に出稼ぎ従事者の男女別」の数値が公表されている。
 ここで「兼業従事者」とは、「年間30日以上他に雇用されて仕事に従事した者および年間の販売金額が3万円以上ある農業以外の自営業に従事したものである。」とされ、「出稼ぎ」とは、「通勤できないため自宅以外の場所に寝泊まりし、臨時的に雇われて働くことで、期間の長短は問わない。」とされている。この数値は、図表3-2-2「出稼ぎ兼農家の推移」で見た出稼ぎ農家数ではなく、主に出稼ぎに従事した者の数であることに留意する必要がある。
 この表からわかることは、図表3-2-4「出稼ぎ者の仕送りの有無と出稼ぎ者のいる農家1戸あたりの出稼ぎ者数」で示した昭和25年(1950年)の数値に比べて、女性の出稼ぎが大幅に減少したことである。昭和25年には、出稼ぎの定義において「女中」など職種で指定されていたものが、雇用・通勤など金銭の報酬を前提としたものに変化しているため、子女の教育を主眼とした「女中」が出稼ぎの概念から外れていったこと、東洋紡績川之石工場が昭和35年(1960年)9月に閉鎖されたこと、子女の阪神方面への就労は出稼ぎという概念ではなく就職として扱われたことなどが、女性の出稼ぎの急減になったと考えられる。

(3)出稼ぎこぼれ話

 ア 繭の販売先と出稼ぎ

 筆者は、ある女性(明治42年生まれ)の思い出話を録音して、その女性の自分史を編集したことがあるが、その中に次のような要旨の記述がある。
 「私は、早生まれでしたから、数えの15歳、満でいうと14歳、今の中学校2年生、あの時分は高等科2年生でした。学校を卒業すると、すぐに私は、大洲(おおず)の中村(なかむら)にあった製糸工場へ働きに行きました。一つ違いの妹は大洲の今岡製糸に、二人別々の製糸工場で働きました。私が19歳になったある日、突然家から電報が来ました。『ヨヲジガデキタ セイシヲヤメテスグカエレ』二人別々に同じ電報が来たのです。寄宿舎では、10人ばかりが同じ部屋に寝起きしていましたから、その人達が、『養子とれいうのか、嫁入りせよいうのかどちらかだろう。帰ったらもう来ないだろう。結婚したらもう二度と来るわけがない。と言って、鏡や半襟(はんえり)などをお別れに買うてくれました。そのころ伊方には、中浦に組合製糸がありましたが、私方の父は共同組合の責任者をしていましたから組合が違います。組合製糸は、組合員の繭(まゆ)を全部買うし、組合員の娘は希望すれば全員雇います。私方は共同組合だから、繭は大洲へ持って行きましたので、大洲の製糸に働きに行きました。ところが、うちの父たちが武田製糸と話をして、川永田に武田製糸の第2工場を作ることになって、娘たちも呼び戻せと言うことになったのだそうです。
 ここで言われている「共同組合」は、明治39年(1906年)愛媛県が共同養蚕組合設立規程を定め、これに基づいて設立された「共同養蚕組合」を指し、共同で蚕室蚕具の消毒、蚕種の保護、稚蚕飼育を行うほか、養蚕生産資材の共同購入や繭の出荷共販も行っていた。一方、「組合製糸」は、養蚕農家自らが製糸加工利益を追求しようと実施されたもので、伊方村中浦の組合製糸は、大正10年(1921年)6月に伊方生糸販売購買利用組合生糸工場として操業開始したものである(従業員男7人、女74人)。また、伊方村川永田に昭和3年(1928年)10月に操業開始した武田製糸第2工場は、従業員男5人、女44人の規模であった(⑲⑳㉑)。
 この話は、養蚕農家がどこに繭を販売するかによって、農家の子女の働き先が、出稼ぎになったり、通勤になったりすることを教えてくれている。

 イ 出稼ぎの「出」と「入」

 出稼ぎに「出」と「入」があることがわかったのは、『神松名村郷土誌』を見たときである。同書の「出稼人累年比較調査表」には、明治33年(1900年)から明治42年(1909年)まで10年間にわたり男女別に出何人、入何人と記されている。職業別には、農・工・商・其他いずれにも数字があるが、なぜ、出稼ぎに「出」と「入」があるのか説明がない。増減ではつじつまが合わない。
 この疑問は、『四ツ浜村郷土誌』を読んで解決した。『四ツ浜村郷土誌』の「出稼人職業及人数表」の入之部に職業「鉱業夫」とあったからである。当時は鉱業が盛んであったので、出稼ぎにやってくる人もいたのである。
 本稿では、このような伊方町域への「入」の出稼ぎ人は調査対象から除外し、地元住民が町外へ「出」た出稼ぎについて扱うこととしたい。

 ウ もう一つの酒造出稼ぎ

 『町勢要覧「いかた」1970年版(㉒)』の杜氏の項目の中に、西宇和郡杜氏組合調とした「昭和44年従業者数」という表があり、「従業地 兵庫県(灘(なだ))、杜氏 無し、その他従業員 30人」と記されている。これは「もう一つの酒造出稼ぎ」である。本稿では、俗に伊方杜氏と呼ばれる酒造出稼ぎは、「酒造出稼ぎ」として別に項目を立てているが、この「もう一つの酒造出稼ぎ」は、いわゆる伊方杜氏と呼ばれる酒造出稼ぎとは全く異質なものであり、ここでは伊方杜氏とは切り離して記述する。
 京浜、中京、阪神、北九州など既成の四大工業地帯を核として、太平洋岸ベルト地帯では高度経済成長期において、土木・建築など建設業において強力な求人が展開された。その余波を受け、建設業以外の産業においても求人難となり、職業安定所を通じて広く出稼ぎが募集された。酒造出稼ぎの面々は、酒造期が終わると失業保険の給付を受ける関係から職業安定所に求職の手続きを行う。その際に職業安定所に勧められ、神戸の酒造場へ仕事替えを行う人々が出てきたのである。
 Cさん(昭和5年生まれ)は、伊方杜氏として徳島の酒造場に勤めていたが、職業安定所の勧めにより神戸の菊正宗に乗り換えた1人である。菊正宗では、醸造蔵(じょうぞうぐら)ではなく貯蔵蔵に所属し瓶詰(びんづ)め工程などに従事したという。期間はお盆を済ましてから翌年4月までで、四国の小さい規模の酒屋に比べれば雇用期間が長く、昼間勤務だけで済むことが大きいメリットだったようである。阪神淡路大震災の年が、ちょうど定年の65歳であったが、その2、3年後に引退したという。実数は把握されていないが、現在においても出稼ぎに行っている人はいるという。

 エ 大工出稼ぎとミカンハウス

 伊方村には、大工職人が多く、名工と言われた人も多い。四国霊場43番札所明石寺(現西予市)の仁王門と薬師寺地蔵堂を手がけた名工もいたとされる。明治末期、四ツ浜村や三崎村の郷土誌には大工出稼ぎが明記されており、佐田岬半島全体に存在したものとみられる。大正10年(1921年)伊方村大浜で120戸を焼失する大火がおきて、その影響から大浜には大工職人が多いとの説もある。戦後の戦災復興、政府の住宅政策などにより全国的に好景気となり、また高度経済成長の波に乗って人口が都市に集中し、建築ブームが訪れ、大工職人の需要が増大、大工職人の出稼ぎや一家あげて転出するものが増大した。都市では、建築の高層化、大型化にともない高層建築が増え、型枠専門の大工職人もでてきた。
 昭和47年(1972年)、温州ミカンが大豊作となり、価格の大暴落に見舞われた。そして昭和48年秋の石油ショックに見舞われ、野菜や花の温室栽培農家は石油の高騰に悲鳴を上げ、温室栽培の継続を断念する農家が続出した。その環境の中で、ミカン農家はこの危機を何とか乗り越えようと、昭和50年(1975年)、伊方町大浜の3人の農家がハウス栽培に踏み切ったのである。これが期待以上の成績を収め、施設費は1年で償還するという大成功となった。その後、ミカンのハウス栽培は逐次(ちくじ)普及していくのであるが、そのうちに伊方特有の現象が現れた。通常の温室は、コストの問題から、パイプ製の規格品で構築していた。しかし、段々畑の地形は複雑で、規格品で構築できる場所はなかなか得られない。そこで地形に即応した木製のハウスが構築されだしたのである。段々畑は傾斜地だから地形に沿って屋根が形作られる。陸屋根(りくやね)である。この陸屋根が熱の放出面を最少にするため、パイプハウスに比べて熱効率がよくなるという、思わぬ成果も得た。宮崎県のある森林組合が視察に来た。「なぜ森林組合がミカンハウスの視察なのですか。と尋ねると、「間伐材有効利用の先進地視察です。と返ってきた。なぜ、この木造のハウスが普及したのかというと、農家自身が型枠大工の経験者で、高所作業を生業としてきた人が多かったからだという(㉓㉔)。

図表3-2-2 出稼ぎ兼業農家の推移

図表3-2-2 出稼ぎ兼業農家の推移

1960年『世界農林業センサス市町村別統計書』ほかをもとに作成(⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭)。

図表3-2-3 出稼ぎ兼業農家/総農家数比の推移

図表3-2-3 出稼ぎ兼業農家/総農家数比の推移

1960年『世界農林業センサス市町村別統計書』ほかをもとに作成(⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭)。

図表3-2-4 出稼ぎ者の仕送りの有無と出稼ぎ者のいる農家1戸あたりの出稼ぎ者数

図表3-2-4 出稼ぎ者の仕送りの有無と出稼ぎ者のいる農家1戸あたりの出稼ぎ者数

『1950年(昭和25年)世界農業センサス(⑰)』から作成。