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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 九町のくらし

(1)生活用水

 「鉱山の鉱毒水の関係もあって、簡易水道の整備は早く進みました。それまでは、共同井戸を使用していました。現在も、三つぐらいは残っていますが、当時は、もっと多くありました。井戸以外にも川の水も使用していました。台所に貯水タンクがあり、料理の準備のときには貯水タンクに水を一杯にしないといけませんでした。そのため、川に水を汲(く)みに行ったり、川で洗濯をしたりもしました。
 お盆などに人が帰ってくると、水の使用量が増えて、通り沿いから少し上の山手の住宅では、水が出なくなりました。そのときは、やかんを持って水を汲みに行きました。お盆とか年末年始は、人口が普段の3倍くらいになっていたように思います。
 その当時、水が出ないことを役場に電話すると『水が出る下の方に別荘を建てなさいや。』と言われたこともありました。その後は、野村ダムから水を引く南予用水ができたので、そんなことはなくなりました。
 私(Cさん)の結婚が決まった時に、母が、嫁ぎ先に水があるかどうかを一番に調べに行きました。嫁ぎ先に『水がありますか。』と聞いて、『あります。』と答えてもらい、母共々安心しましたが、実際には、よく枯れて苦労しました。水の豊富な大洲(おおず)から来たので、特にそう思いました。
 町並みの近くにオキ井戸というのがあります(写真1-2-1、図表1-2-2の㋑参照)。私(Aさん)の家は、このずっと上の方ですが、上の方にも水のあるときには出ていたのですが、夏になるとオキ井戸まで水を汲みに下りていました。昔、この辺りは田んぼで、オキ、オキと言っていました。田んぼがある平たいところをオキと呼ぶのです。それでオキ井戸です。得能森(とくのうもり)には、畑(はた)川の井戸と、もう一つ山の手にオオタネ井戸というのがあって、そこが得能森の人たちが普段使う水でした。また、西地区の海岸沿いの道のところにも共同井戸がありました。
 戦前の話ですが、得能森に住んでいた私(Aさん)は、学校から戻ってから夕方、オキ井戸に水汲みに行っていました。浜の人たちのほとんどは、水道ができるまで井戸水を飲んでいました。水汲みは子どもの仕事でした。桶(おけ)をかるって(担いで)、荷負って(棹(さお)で前後に下げて)坂を上がるのです。汲んで上がったら、甕(かめ)に水を入れておくのです。」

(2)九町の年中行事

 ア 春-ひなあらし-

 「節句の『ひなあらし』という行事は、昔からあるようです。各地区で所有する磯(いそ)に行って弁当を食べて、磯物(いそもの)を拾って帰るという行事のことです。これは地区の行事でした。旧暦の3月4日、今の暦でいえば4月の初めころに行います。
 畑(はた)地区では、瀬戸内側のアラカイに行きます。原子力発電所より西の方、今はゴミ捨て場がありますが、その下の方です。アラカイ、アラカイと言っていましたが、アラカヤが本当だろうと思います。久保地区も瀬戸内側だったと思います。須賀は女子岬(めっこみさき)のほうです。奥地区は柿(かき)が谷(たね)といって亀浦(かめうら)寄り、今の原子力発電所の辺りでした。昔は、亀浦はカヤウラと言っていました。
 海岸では、下手(しもて)(半島南岸、宇和海側)より上手(うわて)(半島北岸、伊予灘側)の方が、磯物が採れていました。潮が引いたら、磯物のニナやウニ、サザエとかも採れましたが、ツベタカという大きな貝がよく採れていました。それから海藻、ワカメにヒジキです。それを採っていました。ワカメやヒジキは食べるのです。肥料にするのはホンダワラといってもっと長く大きいものです。海岸に打ち上げられていますから、それを拾っていました。
 畑地区の全戸、約30戸から100人くらいが出ました。子どもも行っていました。お弁当は、家族みんなで重箱を一緒に食べていました。お酒も持って行って、大人が飲んでいました。」

 イ 夏-実盛さん、お盆飯、盆踊り-

 「戦前、私(Aさん)が子どものころは、旧暦の6月、実盛(さねもり)さんの日に数珠(じゅず)と太鼓とカネを持って村を歩いていたのです。晩は松明(たいまつ)を持ってオキをやる。オキというのは、九町小学校の東側の田んぼのあたり(平野部)のことです。昼はヤマを回りました。ヤマは、九町小学校の西側の、家が散らばっている傾斜地のことです。
 実盛さんの行事は区長さんが取り仕切るのですが、歩くのは子どもたちで、区長さんは天徳寺に行って藁(わら)人形の実盛を作ったりするのが役目でした。藁人形に裃(かみしも)を着せて、そして丸に十の字を書くんです。私(Aさん)が区長をしている時に、『どうして丸に十の字なんですか。』と聞いたら、昔からこのようにやっているので、意味はわからないと言われたのです。これは、鹿児島(島津家)の紋(もん)なのですが、どうも調べてみると、このあたりのお寺はみな、今の龍沢寺(りゅうたくじ)(西予(せいよ)市城川町(しろかわちょう)の名刹(めいさつ)、薩摩(さつま)藩とゆかりがある)の末寺だったということのようです。
 戦前には、8月のお盆の日に地区ごとに小さい子どもたちが寄ってお堂に泊まって、お盆飯(ぼんめし)炊きをやっていました。畑(はた)地区では、オキ井戸のずっと上に上がる道にあるお堂でやっていました。おこもりとは言わず、『お盆飯』と言っていました。子どもたちが皆寄って、盆飯を炊いて一晩泊っていました。女の子は、晩は泊らなかったけど、昼は一緒に居たと思います。今、公民館でやっていますが、それの名残りではないでしょうか。
 戦前の盆踊りは口説(くどき)という即興の歌でみんなが踊っていました。私の親父も即興でやっていました。その場で太鼓をたたいて、唄(うた)を歌う文句は即興なのです。それが戦前の盆踊りでした。踊りは一応決まっていたと思いますが、それに合わせて唄を歌っていました。即興だったから、いろんな歌詞がありますが、最後だけ『出石山(いずしやま)より高い山なれば』とかが入って、それで終わるようです。あとはいろんな歌詞があります。踊りは子どもも大人も一緒でした。子どもはちょっと仮装をしていました。
 先祖の新盆だという場合、燈籠(とうろう)を持ってきていました。新盆の燈籠を持ってきて、そこで盆踊りをしました。場所は農協の広場でした。広いところはそこしかなかったので、だいたいの行事はそこでしていました。
 戦後、昭和30年代になってから、盆踊りは九町小学校で行うようになりました。今は多目的広場で行っています。きそん節(ぶし)を踊っていました。今、伊方町指定文化財に指定されています。出稼ぎに行っている人が、お盆には帰ってきますから。きそん節もいろんな歌詞があったようです。頭に手ぬぐいを被って、手には木の枝とかシダとかなんでもいいので持って踊っていましたが、次第に日本扇(おうぎ)(扇子(せんす))を持って踊るようになりました。盆踊りの曲は、地声で男の人が歌い太鼓が伴奏をしていました。」

 ウ 秋-八幡さんの祭り-

 「宇佐八幡(うさはちまん)さんの秋祭りが一番にぎやかでした(図表1-2-2の㋓参照)。順番があって、一番最初がホコや御弓(おゆみ)で、牛鬼が続き、その次が五ツ鹿で、続いて御車(おくるま)です。今は四ツ太鼓ですが、かつては御車でした。御車というのは、クルマに芸者さんが乗って三味線(しゃみせん)をひいて歌うのです。その後が唐獅子(からじし)の順番です。戦前は、唐獅子はなかったです。九町の唐獅子は、保内町の雨井(あまい)か西町(にしまち)かどこか、あの辺りから習ってきたものです。お宮さんから、まず御神輿(おみこし)だけが各地区を回って、次いで牛鬼などの行列が村の中を練(ね)り歩き、道路で競り合いをして、最後は舟に乗るのです。波止(はと)から舟に乗って、それも順番があって、牛鬼が乗って、五ツ鹿が乗って、四ツ太鼓が乗って、唐獅子が乗ってという順に、各地区で用意した舟に乗って行います。
 担当の地区があって、西が牛鬼の舟を用意します。この西というのは、西と久保で西という一つの地区になるのです。奥は単独で五ツ鹿です。東というのが畑と須賀なのですが、そこが今は四ツ太鼓です。向地区は唐獅子です。それが各々の地区で舟を用意して、海に出て、乗るのもその順番どおり、海から上がるのもその順番。上がったら浜でオツトメ(唐獅子や五ツ鹿)をして、また、西の道路を上がってきて、またお宮の前で最後のオツトメを順番にして終わりなのです。
 御車(おくるま)が四ツ太鼓に変わったのは、八幡浜から呼んでいた芸者さんで、御車に乗って三味線をひく人がいなくなったからです。八幡浜の芸者さんは毎年、桃太郎さんでした。桃太郎さんは、4、5年前に亡くなりました。
 祭りの日、奥地区ではみんな浜に出てしまうので、家が空(から)になる感じでした。でも、祭りの時だけ、他所(よそ)に働きに行っている若い娘さんたちが帰ってきて振袖(ふりそで)を着ていましたから、その時が一番華(はな)やかでした。お祭りではご馳走(ちそう)を作っていて、いいものが食べられました。」

(3)食生活

 「昭和30年(1955年)ころ、九町の普通の家では、ふだんの主食は麦ご飯が大半でした。それは、茶碗のほとんどが麦で、下の方にお米があるというものです。カンコロ(切り干しを炊(た)いたもの)とかもありました。お祭りとかのハレの日には、白いご飯、米だけになります。
 そのころは、この辺りの山は段々畑が広がっていて、半分がイモと麦、半分が夏柑を作っていました。九町では、昭和20年代にはトマトがありましたが、イモと麦に変わりました。
 昭和30年ころ作っていたお菓子としては、家で親に蒸しパンをよく作ってもらった思い出があります。今でいうと大福みたいな白い菓子です。今の柏餅(かしわもち)ではないけれど、サンキラ(サルトリイバラ)の葉っぱを山から採ってきて作ってくれました。あとはイモアメやらヒガシヤマがお菓子でした。
 アメ玉のことをドングリと言っていました。昭和30年ころはイモアメでアメ玉を作っていました。ひなあらしの時期に、イモアメを炊いた後、残っているイモアメでトジマメを作ります。トジマメというのは、米のあられやトウキビ、落花生(らっかせい)も少し入れてアメに混ぜて小さく丸く固めて作ります。落花生を今は作らなくなったけれど、その時分はトジマメ用に作っていました。イモアメは、昔は作っていましたが、今は作りません。
 ヒガシヤマは、イモを蒸して皮をむいて薄く切って乾燥させたもので、子どもたちのおやつにもなりました。蒸すときは、三椏(みつまた)を蒸すような大きな釜で蒸して、皮をむきます。切るのは普通の糸で、シャッシャ、シャッシャと切ります。そして干しますが、浜の砂がつくので砂をのけて食べていました。風が吹くので砂も飛ぶけれど、よく乾くのです。
 ヒガシヤマのほかに、町見の郷土料理に正月の雑煮(ぞうに)とアズマがあります。正月の雑煮は、九町では根菜類(サトイモ、ゴボウ、ダイコン、ニンジンなど)に、かまぼこ、テンプラ(魚のすり身を揚げたもの)、豆腐、こんにゃく、昆布(こんぶ)とともに、必ず塩鯖(さば)を煮込み、丸もちを別にゆがいて柔らかくして添えます。九町では、昔は全戸がこの煮物雑煮でしたが、今は7割くらいではないかと思います。他の地域はどこも汁物雑煮ですが、なぜ九町にこのような煮物料理が行われているのか、理由がわかりません。もう一つ、この雑煮には塩鯖が付き物です。鮮魚の豊富な半農半漁村でありながら、わざわざ塩鯖を付けることに、どんな意味があるのでしょうか。愛媛県歴史文化博物館の学芸員さんにお聞きすると、『京都のお祭り料理が伝えられて残っているのではないか。』とのことでした。九町には、京都から伝えられた文化が残っているようです。
 また、アズマは、九町発祥の郷土料理といわれ、豆腐を作ったときにできるオカラに味付けして、酢をいれ、米に混ぜ込んで小さいおにぎりにして盛りつけます。ヒガシヤマもアズマも、その語源は東にある京都の高級料理や高級菓子にちなんで付けられた名前ではないかと思います。
 ヒガシヤマのイモは、昔は皮が白くてやわらかいイモで、カワジリイモと言っていました。佐田岬半島の瀬戸内側はマテガイが採れていたので、海を渡って広島県の川尻(かわじり)町の人がマテガイを採りに来ていました。それで、こちらからも漁師が出て一緒にやっていました。川尻の人が、『イモを食べてみませんか。』と勧めてくれたのですが、食べてみたらおいしいので、『このイモはおいしいですね、このイモの種をもらえませんか。』と言ってみたら、『今度来るときに持って来てあげる。』と言って持ってきてくれたのです。それで白いイモにカワジリイモという名前が付いたのです。」

(4)遊び

 「戦前の遊びというと、ムク打ちでした。戦後のビー玉遊びと同じですが、戦前はビー玉がなかったので、ムクの木(ムクロジ)の実で打っていたのです。道とか、お宮とか学校でもやっていました。昭和30年代には、輪ゴムを土の中に隠して、その輪ゴムを取ったりする遊びがありました。土を盛っておいて、その中に輪ゴムをポンと離してそれを探すのです。
 あとは、カッチンといって、メンコをしました。また、木を削ってするネンガリという遊びがありました。木を削って、だれかが土の中に木を打ち込み、木を1本立てます。その木をねらって別の子が木を投げて当てて、相手の木が寝たら(横倒しになったら)勝ちです。普通は5寸釘(くぎ)ぐらいの木でするのですが、このあたりの子は木の枝を鉛筆のように先を尖(とが)らせて、それを土に打ち込みます。勝ったら全部もらうので、持って帰るのが大変でした。
 マイトという、戦前から戦時中あった陣取り遊びがありました。マイトというのは、書類を綴(と)じる綴じ糸みたいな糸で、赤や黄色などいろんな色の糸がありました。ある色の付いた糸をみんなが1本ずつ持っているのです。糸の色によって、大将や元帥(げんすい)、兵隊などいろいろ役が決まっていました。将棋の駒みたいなものです。糸は人に見えるように持っていないといけません。二つのグループに分かれて、やりあいというか、タッチをします。自分より強い役を示す糸を持つ人にタッチされたら負けです。そして、勝った人の陣地に連れていかれるのです。兵隊遊びでしょうか。ですが、元帥の色の糸だからといっても、ある色の糸には負けるようになっているのです。自分より弱い人を追いかけてタッチするわけです。そして、自分のところの陣地を増やしていくわけです。捕虜(ほりょ)を増やすというか、自分の陣地が増えたら勝ちになるのです。
 貝殻でする、おはじきみたいな遊びもありました。ヤサルメというきれいな貝で当てる遊びです。ヤサルメは上手(うわて)のアラカヤとか柿(かき)が谷(たね)で採れました。
 クモを戦わせる遊びもありました。シマグモとかダイグモと言っていましたが、女郎(じょろう)グモ(コガネグモのことか)を喧嘩(けんか)させるのです。木の枝を折って、それでクモを採って、枝と枝同士を合わせてクモ同士を喧嘩させます。勝ったほうは残っているけれど、負けたほうは全部ぐるぐるに、クモの糸にまかれて死んでしまいます。勝ったら木の枝にクモをつけて持って帰ります。夏休み、子どもはみんな、自分の家の軒でクモを育てて、強くしてから戦いに持って行きました。虫を捕まえてクモに与えて、自分のクモを大きく育てていました。」

写真1-2-1 オキ井戸

写真1-2-1 オキ井戸

伊方町九町。平成24年1月撮影