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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 窯業とくらし

 三島町(みしままち)で操業していた多くの窯(かま)は、第一次世界大戦後の不況のあおりを受け、大正末期に廃業した。しかし、高橋窯は昭和初期、金岡窯は昭和9年(1934年)まで操業していた。また、大正4年(1915年)に伊予陶器株式会社が設立され、陶磁器が大量生産されていた。工場は郡中(ぐんちゅう)港近くに建設され、通称池貫(いけかん)工場といわれた。
 昭和初期の高橋窯、池貫工場の様子について、Aさん(大正13年生まれ)から話を聞いた。

(1)唐津山の思い出
 
 「窯場のことを唐津山(からつやま)と言っていました。子どものころは、父が働いていた高橋窯の唐津山に行くのが日課でした。高橋窯は、金子(かねこ)天神社の横(北西方向)にありました(図表3-1-8参照)。その辺りの斜面を利用して窯がありました。トンバリ(窯を築くための耐火煉瓦(れんが))で窯を造っていました。
 うちの家の周囲にもトンバリがありました。今でも、三島町(みしままち)の家の庭にトンバリを置いてあるところがあります。
 高橋窯には、焼き損じのものを捨てていたガラ捨て場がありました。ガラ捨て場は、窯場の東側でした。高橋窯で勤務している家の子どもたちが、学校が終わると遊び場の代(か)わりに行っていました。昔は、子どもが仕事場に行っても別に何も言われませんでした。普通のことでした。
 昔は、唐津山(からつやま)へ行ったら、足が滑るくらい陶器のかけらが落ちていました。焼いたものはすべて陶器と言っていました。窯で焼くときに陶器を重ね積みするのに使う『サラマシ』は、内職で近所の人が作っていたと思います。高橋窯では、こたつ(こたつの中に入れるアンカ)なんかも作っていたみたいです。
 高橋窯は広かったですよ。表の道から奥(東側斜面)まで高橋窯の敷地でした。表の門から少し入ったところに池みたいな堀が二つあり、その中に『コシカス』がありました。陶磁器の原料になる陶土を濾(こ)すときにコシカスが出るのですが、それを堀の中に入れていました。
 敷地内では、女性がお茶碗の絵付けをしていました。銅版で絵付けをしていたように思います。ハケを使って、くるくるお茶碗を回しながら作業されていました。お茶碗を作るのも女性がしていました。
 私が知っている限りでは、子どもが働いていた記憶はないです。従業員は地元(三島町)の人が多かった気がしますが、郡中あたりからも来ていたと思います。
 窯焚(かまた)きの初日は、火入れ式をしていました。塩払い(お清め)とかもしていました。窯焚きが始まるとイモを焼いてくれるので、それが楽しみでした。窯の熱でイモ焼きができました。あるとき、窯が暖かいので猫が入ってしまい焼けたことがありました。かわいそうなかったです。
 寒い時期の窯焚きは暖かいので、近所の方などいろんな人が集まって世間話をしていました。子どもから大人までいました。逆に、夏は暑くて大変だったと思います。高橋窯は、敷地が広く春にはツクシも採れたので、毎年採りに行きました。
 製品は、茶碗が多く出来ていたと思います。自分の家で使用していたのは、二割物(にわりもの)と呼んでいたもので、製品として出荷するには少し不良なものを使っていました。」

(2)窯場の仕事とくらし

 「父(明治生まれ)は、ずっと高橋窯で仕事をしていました。父の仕事は登り窯の窯焚(かまた)きでした。窯焚きの仕事は何日もかかっていました。窯にずっとついていましたが、何日も帰って来ないわけではなかったと思います。ご飯をどうしていたかはわかりませんが、高橋窯は家の近所でしたので帰って来ていたのではないかと思います。
 窯焚きの仕事は、父が丸太をくべて燃やすぐらいしかわからないです。父が当番のときは、窯に火を入れると、その日は、家に帰ってきませんでした。当番の人は一人で窯を見ていたと思います。子どものころなのでよく覚えていませんが、とても懐(なつ)かしいです。
 父は、高橋窯に勤めていましたが、窯が廃業する前に、池貫(いけかん)(伊豫陶器株式会社)に行くようになりました。池貫に行った当時は、戦争で軍事工場のようになっていました。戦後も池貫に行っていました。そのころから、学校を卒業した弟(昭和3年生まれ)を連れていくようになりました。雨が降ると、私が傘を持って二人を迎えに行ったことがあります。ある日、雨が降ってきたので、母に『傘を持って行って。』と言われて池貫に行くと、父も弟もロクロの仕事をしていました。
 弟は、ロクロを専門に仕事していました。夜は、『ヘラ』という道具を作っていました。お茶碗の口を整える道具です。材料は、機織(はたお)り機の仕切りに使っていたものを利用して作っていました。1日で消耗(しょうもう)するような道具ではなかったですが、予備として前もってこしらえていました。
 池貫の製品は、全部貿易に出していました。製品は藁(わら)で綺麗(きれい)に包まれていました。製品を藁(わら)に包む作業は女性がやっていました。それを港の方にも運んでいたと思います。高橋窯のときのことはよくわからないのですが、製品を藁に包んでいたのは覚えています。
 池貫は、昭和17年(1942年)に、会社名が伊予窯業株式会社に変わりましたが、そのときも行っていました。そのころは碍子(がいし)(電線などの絶縁(ぜつえん)体)を作ったりしていたみたいです。
 休みがあったかどうかは覚えていませんが、よく働いていた印象があります。盆と正月ぐらいは休みだったと思います。一年を通して忙しい季節があるわけではないですが、一度窯に火が入ったら、夜通し働いていました。窯焚き以外の期間は、ロクロもしていましたし、乾燥させるために、板の上に製品を乗せて運んだりもしていました。
 父から『仕事がしんどい。』など愚痴(ぐち)を聞いたことはなかったです。子どもに苦労話を言うこともなかったです。父が焼いた家紋つきの湯呑みが、今でも残っています。父が50個焼いて親戚にもあげたりしました。特に何かの記念としてではなく、父が思い立って作ったのだと思います。池貫(いけかん)で勤務している時代に作ったと思います。」

(3)町のにぎわいと習俗

 「父が高橋窯に行っていたころは、陶石などの原材料や丸太は、荷馬車が運んでいました。上の方(南)には金岡(かなおか)窯があったので、荷馬車や馬が一杯いて、表の通りは賑(にぎ)やかでした。大正時代には、他にも玉本(たまもと)窯、近藤窯、浜松窯、金岡窯などがあって、今より賑やかだったそうです。
 そのころは、三島町(みしままち)の通りには瓦屋(かわらや)さん、自転車屋さん、お風呂屋さん、酒屋さん、駄菓子屋さん、銭湯、ふとん屋さんなどがあり、活気がありました。銭湯があったのは、私が子どもころの話です。鉄工所も昔からあって、電車も作っていました。池貫(いけかん)工場まで傘を持っていったときの、郡中(ぐんちゅう)の町並みも賑やかでした。製材や削(けず)り節(ぶし)の工場などが繁栄していました。
 天神(てんじん)さんの秋祭りは、10月15日です。私の母もご飯炊きの手伝いに出たりしていました。大根葉が取れる時期でした。それをお葉漬(はづ)けにしておかずにしました。神輿(みこし)は稲荷(いなり)さん(稲荷神社)から、来るときではなく帰るときに天神さんに寄っていました。その昼食用のご飯を村の女性たちが大きい平釜で炊いていました。みなさん、お葉漬けでお茶漬けなどをいただいていました。
 昔は、盆踊りも天神さんでやっていました。私の夫が元気なころは、太鼓(たいこ)を叩(たた)くのが好きで、いつも盆踊りで叩いていました。20年ぐらい前までは盆踊りをやっていましたが、今はしなくなりました。昔はたくさんの人が踊っていました。寄付をいただいた方の名前を貼(は)ったりして、賑やかにしていました。出店も出ていました。
 三島町で火を祀(まつ)る習わしがあります。愛宕(あたご)さんと呼ばれた古い掛け軸が、何軒かの家に回っていきます。愛宕さんは、火の神様で、火を守るとか、火の用心の意味で祀っています。窯に関係があるのかもしれません。掛け軸が入っている箱は、虫が食ってかなりの年代物のように思います。
 掛け軸は、正月、5月、9月に、昔からこの辺りに住んでいる家に順に回っていきます。回ってきた日は、小豆(あずき)ご飯やお菓子をお供えして祀(まつ)ります。昔は、あられの炒(い)ったものとかを、その愛宕(あたご)さんが回る家々に配っていました。そのあられが、子どもころには楽しみでした。今でも地域に残っている念仏講みたいなものだと思います。」

付記 今回の聞き取り調査や採集資料で、いくつかの発見はあったものの、文献や統計などの新資料は得られなかった。したがって、本節の記述にあたっては、先学の研究、とりわけ、近藤英雄、森岡正雄、山本典男氏の研究に拠るところが多い。また、本稿をまとめるに当って、石岡ひとみ氏のご教示を賜った。

図表3-1-8 昭和初期ころの高橋窯

図表3-1-8 昭和初期ころの高橋窯

Aさんからの聞き取りにより作成。