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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 深山大井手と人々のくらし

 分水嶺を越えて流れる導水路「深山大井手」の水は、今も下灘(しもなだ)の串(くし)地域で活用されている。Cさん(大正15年生まれ)、Dさん(昭和2年生まれ)、Aさん(昭和9年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)、Eさん(昭和32年生まれ)から「深山大井手」の話を聞いた。

(1)水の流れる場所

 「深山大井手の水は、はじめ、壺神山(つぼがみやま)の水を堀切まで引いて、そこから山の斜面を流れて、満野と松尾の2地区に水が流れていたと聞いています。しかし、今は満野には水が引かれておらず、松尾地区と本村地区に水が流れています。
 満野の場合は、堀切からの距離が長く、水路の管理、とくに草刈りやら、『水引き』やら大変だったと思われます。私方(Aさん)が水源に使っている川を横切って、水が満野に行っていました。今みたいにヒューム管でなく土による水路ですので、途中で水が自然蒸発したり、浸み込んで漏れたりして、管理の難しさの割に水の確保が難しかったのでしょう。
 深山大井手は別に『一念井手(いちねんいで)』とも呼ばれていました。井手を築いたのは、今坊(こんぼう)地区(大洲市長浜町)にある瀧山(たきやま)城主であった久保行春(ゆきはる)だとされています。行春は一念と号していたようで、満野(みつの)にある久保行春の碑に『天光院殿観法一念大居士神儀(てんこういんでんかんぽういちねんだいこじしんぎ)』と刻まれています。この久保行春が中心となって井手を造ったので『一念井手』と呼んだのではないでしょうか。取水地から堀切までは水路が緩やかですが、おそらく『一念井手』の整備の際、夜に提灯(ちょうちん)を持たせて、向い側の山に水平に並ばせ、それを確認しながら堀切まで工事をしていったと思います。久保行春は慶長18年(1613年)に亡くなっていますから、それまでに水路が築かれたものでしょう。
 今の人は、水が自然に流れる流域に権利があるように考えるでしょうが、土木工事をして水を引いた村に水利権があり、江戸時代には水田の多くを庄屋が所有し、残りをその他の百姓が所有していたので、水利権も庄屋が握っていたのでしょう。」
 「古文書にある、天明年間(1781年~1789年)に水争いが起きたとき、串(くし)村の組頭(くみがしら)であった私(Aさん)の先祖良右衛門(りょうえもん)は、かなりの年寄りだったみたいで、水争いから10年後の寛政7年(1795年)に、良右衛門は亡くなっています。祖父からは、良右衛門が杖(つえ)をついて水争いの解決にあたったように聞いています。その褒美(ほうび)として、庄屋から、深山の水を年間のうち36時間取水する権利をもらったのです。36時間もらえるのは、満野からとか、本村からとかでなく、両方に流れている水を36時間分もらえるという約束です。その水は、堀切の所で3本目の水路として分岐しています(写真2-1-6、2-1-7参照)。36時間は、連続ではなくてもかまいません。それぞれの地区の井手当番から了解がもらえれば、我が家で自由に使うことができます。」

(2)水路とくらし

 「深山(みやま)の大井手は、海側に出れば勾配(こうばい)があって自然に流れますが、堀切までは勾配がほとんどないので、水路の掃除を兼ねて『水引き』をする必要がありました。水路の幅はだいたい80cmから1mあり、それにそって畦道(あぜみち)が幅50cmぐらいありましたが、カーブする箇所はもっと広かったです。井手はセメントで固めたのではなく、赤土できれいに固めていて、水が漏れたりしませんでした。
 水路に水が順調に流れるように『水引き』をします。『水引き』はスギの枝を3本ぐらい、根元を縛って畳半畳ぐらいの広さになるように作り、その上に石を置いて重しにして、水路の水を引っ張って水路掃除をすることです。ゴミも水も一緒に引いていくことができます。それを1日すると、水が順調に流れてきます。水田を持っている人は、何日も『水引き』をしました。水路の勾配がなるい(ゆるやか)のでしないといけないのです。主に水が必要な時期の6月から8月に、水路の水量が減るとみんなで出て作業していました。特に干ばつのときに水を引っ張りに行く必要があって、初めて『水引き』にいったのが、10代の半ば、高等科を卒業した次の年のことでした。祖父から『お前(Cさん)、深山の水を取りに新さんと矢野さんが行かれるから、うちも行かんといかんから、お前行ってみい。』と言われ、シュロ縄と縄で編んだ草履(ぞうり)のような形で肩を保護するものを持っていきました。肩を保護するものは、山から家までミカンを運んだり、クヌギの木を運んだりする四つ車を引っ張るときに、ロープだけでは肩が痛いので使うものです。そのときは、シュロ縄と肩を保護するもので、どうやって水を引くのか、わかりませんでした。当日作業しに井手へ行くと、井手が大きくきれいで立派なので、びっくりした記憶があります。
 木の枝を切って、それを井手の中で広げて、その上に石を置いて、およそ2kmほど引っ張ります。井手に上がる前に聞かされたことですが、地元のある人が井手に『水引き』に行ったときは、本を読みながら引っ張っていたそうです。『速く引くと水が抜けてしまうので、本が読める程度のスピードで引っ張らんといかんぞ。』と言われました。速すぎると、村に落ちてくる水が少なくなるので、『あの人はいそしい(動きが速い)ので、あの人が水を引いた後は水が落ちてこん。』と地元の人にうわさされることもありました。
 松尾(まつお)の人4人は、再々『水引き』をしに行ったそうですが、本村(ほんむら)の人は、自分の所の水が足りなくなったときに行く程度だったそうです。本村の人4、5人が上がって井手掃除するときは、50mから100mほど間隔をあけて『水引き』をしていました。素足ではあぶないので何か履(は)いていました。水引きをすると、水に勢いがつくので、カニがいた穴が塞(ふさ)がったり、ゴミが取れたりして、翌日1日ぐらいは、多く水が流れるようになります。『水引き』をよくしていたので、井手は磨かれてきれいでした。
 『水引き』を残しておきたいということで、本村の久保井さん、上田さん、新さんらが深山大井手に上がって、8ミリ映画に記録したと言っていました。今、そのフィルムがどこにあるかはわかりません。」

(3)分水嶺北の導水路を土管に

 「水道がなかったころ、松尾(まつお)には、湧(わ)き水がある所が3か所ぐらいあり、それを生活用水に使っていました。松尾の上の方で深山(みやま)の水が本村(ほんむら)へ流れているのですが、その水路から水が自然に漏(も)れて、湧き水や水田の水になっていたようです。
 大正末か昭和の初め、祖父の時代に、堀切(ほりきり)から本村への水路の一部を土管にするという話が持ち上がり、松尾の人は、土管にすると水が漏れなくなって水不足になることを心配して、土管にするのを反対していたのですが、本村の人たちが土管を埋めてしまったのです。それで紛争になりましたが、もう埋設(まいせつ)してしまっては、仕方がないということで、土管を埋設した代わりに松尾地区に年間24時間、深山の水をあげる、また松尾のなかに、温泉が出るという湯地(ゆのち)という所があるのですが、そこにも24時間あげるということで紛争が決着しました。」

(4)分水嶺南の導水路をヒューム管に

 「昭和40年(1965年)ごろに深山大井手のうち、法師(ほうし)にある取水口から堀切までの導水路をヒューム管にする工事をしました(写真2-1-8参照)。この工事は、国の事業として行ないましたが、そのためには、松尾地区全戸の承諾が必要になったので、深山の水を防火用水に使用する権利を一部認める代わりに全戸の承諾を貰(もら)いました。堀切から松尾地区まで100mぐらい落差があるので水圧があり、消防用水としてそのまま使えます。過去に2回ほど使ったことがあります。たまに点検で水を流して使用するぐらいで、ふだんは使われることがありません。また、この工事をした昭和40年(1965年)ごろ、新谷(にいや)の老人が若い人を連れて、『深山大井手でこういう問題(新谷方面に流れずに伊予灘側に取水している)があるのだ。』ということで、法師へ井手を見に来たことがありました。
 今、松尾では水田耕作をやめているので、水があるはずだが、水は地区の水路に来てないようです。
 本村地区では14軒の家が今も深山の水の水利権を持っています。今は、水田やハウスミカン、キウイの灌水(かんすい)に使用しています。本村も松尾地区と同様で、防火用水としては、地区の全戸で使えるようになっています。地区で火事があったため、それまでの『沢の池』の水だけでなく深山(みやま)の水も防火用水の水源にするようになったのです。
 昭和38年(1963年)か39年(1964年)に、取水口から堀切までの導水路を井手じゃなくてヒューム管にすれば、『水引き』もしなくてよいし、水もたくさん流れるようになり、ミカンにも使えるようになるから、管を埋めようということになりました。県にお願いしたら、地元で反対運動が出ないようにすることと、新谷(にいや)側(壺神山(つぼがみやま)から流れる水が、人工導水路がなければ自然に流れていく流域)と話し合いができれば工事してもよいと言われたので、関係先に話に行ったそうです。
 松尾のAさんの田に水を入れることを『小谷(こたに)落とし』といい、他に『新谷落とし』もありました。それぞれ水利権があったので、水に困ったときは水をあげる約束がありました。
 深山大井手の水利権は、松尾(まつお)が4人に対して本村(ほんむら)は14人いましたが、地区ごとにそれぞれ半分ずつ水の権利を持っているので、その費用の負担が、14人で半分持つのと、4人で半分持つのでは、3倍強違うので、それをどうするかが問題でした。ふだんは、ほとんど松尾地区の人が水路を使用していて、本村地区は干ばつのときに使うだけだったのですが、これからは、常に半分は本村地区で使用するから、今回の工事費用を本村地区が多く負担することで話がまとまりました。ヒューム管にする費用負担は、松尾4分の1、本村4分の3で工事を行いました(写真2-1-9参照)。
 取水口から堀切までヒューム管で導水されると、本村ではミカン園にそれぞれ引水し、およそ12,000mパイプを引き、灌漑(かんがい)用水にしました。パイプが畑の下に埋まって水が流れる音が聞こえるのですが、水利権がなければ、水が流れる音だけゴウゴウ聞かしてもらって水がもらえません。費用が地区全体で800万円ぐらいかかったので、費用を分担した人のなかにはローンで返済(へんさい)したりした人もいました。この工事は、昭和42年(1967年)に完成しましたが、その年に初めてミカンの大暴落がおこったので、よく憶(おぼ)えています。
 深山大井手の水があったからこそ、本村ではハウスミカンの栽培ができています。ハウス栽培の場合、雨が降ってもハウスの中には水を入れることができないので、深山(みやま)の水と『沢の池』の水の権利がある人だけがハウスミカンの栽培ができるのです。
 今は、飲み水、防火用水と、水田やハウスミカン、キウイ栽培にしか深山の水を使用しません。かつては水田が4町(約4ha)程ありましたが、今では2、3反(約20aから30a)になりました。水田が多くあった時期には、『沢の池』の水を飲んでいましたが、水田がなくなるにつれて、水に臭(にお)いがついて飲めないから、深山の水を飲み水にしました。いずれは深山の水を飲み水にしたいという思いがありました。」

写真2-1-6 掘切での分水1

写真2-1-6 掘切での分水1

下から上に流れ、右が松尾地区、左が本村地区へ分水する。伊予市双海町。平成23年11月撮影

写真2-1-7 掘切での分水2

写真2-1-7 掘切での分水2

上の写真の左側。下が本村地区、上がA家への水路になっている。伊予市双海町。平成23年11月撮影

写真2-1-8 深山堰(二番水口)取水口

写真2-1-8 深山堰(二番水口)取水口

伊予市双海町。平成23年11月撮影

写真2-1-9 地中に埋まるヒューム管

写真2-1-9 地中に埋まるヒューム管

伊予市双海町。平成23年11月撮影