データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)御荘平城の街かど-あの店、あの仕事-②

 ウ 上町

 「土予銀行跡の建物(図表3-3-4のサ)から電報電話局(図表3-3-4のス)までの間の店は、昭和30年代に入れ替わりが激しかったと思います。飲食店が洋品店になったり、自転車屋が食料品店になったりしました。薬局(図表3-3-4のシ)は、電器店からラジオ音響店、オートバイ販売店、さらに衣料品店へと、めまぐるしく替わりました。
 電報電話局は昭和32年(1957年)に永の岡に移転して、局の跡地に東邦相互銀行御荘出張所が移転してきました。東邦相互銀行はもとは東邦無尽といい、芝医院の一角(図表3-3-4のセ)にありました。
 和口橋の東には旅館が集まっていました。御荘座の南にあった老松(おいまつ)旅館(図表3-3-4のナ)は、南郡(なんぐん)一の老舗(しにせ)旅館で格式が高かったのです。偉い人が来ると、ここに泊まってもらい接待していました。人数が多い宴会も老松(おいまつ)でしていました。このあたりの旅館は、お遍路さん相手というより、平城へ出張してきたセールスマンや営業の人たちでした。何日か泊まって南郡一円の村々を巡(めぐ)り商売をしていました。
 御荘座(図表3-3-4のト)では、映画や演芸をしていました。昭和30年(1955年)ころが映画の全盛時代であったと思います。霧島昇や平尾正晃、竹山逸郎、八代亜紀さんらも舞台に立ちました。御荘座には、立ち見まで入れれば600人くらいは入れたと思います。」
 『御荘町史(⑦)』によれば、昭和4年(1929年)に御荘座が落成したという。それまでは、興行は河原や空地など野外に仮舞台をつくって行われていた。昭和30年代には、名画が上映されたが、教育映画や啓発映画なども上映されてPTAや婦人会も大きな恩恵を受けていた。映画の衰退とともに昭和43年(1968年)には大衆喫茶の「サンレモ」に生まれかわった。
 「御荘座が閉鎖された後、町内の有志で『チケット組合』を結成し、城辺文化センターや南高(なんこう)(愛媛県立南宇和高等学校)体育館を借りて興行しました。有名な歌手はだいたい来てくれました。私(**さん)は組合役員として公演の裏方をしていましたが、水前寺清子さんの歌謡ショーの時、楽屋にしていた南高の一室に『いいよ。』と言うので入室したら、水前寺さんが下着姿だったという思い出があります。
 上町の町筋の南には、造り酒屋(図表3-3-4のテ)がありました。南予酒造といい、『南予司(なんよつかさ)』という銘柄(めいがら)の酒をつくっていました。昭和33年に酒造場が閉鎖になり、その一部にダンスホールができ、その後ローラースケート場になりました。私(**さん)はそこに滑りにいった記憶があります。そこには同年秋、主婦の店も開店しました。
 金物店(図表3-3-4のチ)は、古くからの店です。現在も昔ながらのやり方で商売を続けているのは、平城ではここぐらいです。品物には昔風の符号がつけてあって、店の人には価格がわかるのですが、客には意味がわかりません。どこに何の品を置いているかも、店の人にしかわかりません。『何々がほしい』と言えば、店の人が探し出してくれます。大きな商品の倉庫は店とは別の所にあって、取って来てくれます。何十年も前に仕入れた品物で今売っているものもあります。
 昭和20年代には、平城の町の南を流れる僧都(そうず)川の河原で傘(かさ)を乾燥させていました。河原や土手の草むらに杭を打ち込んで、それに傘を結びつけて干していたように思います。傘に桐油を塗りますので、2、3日は干していたようです。そうしないとひっついてしまって開きにくく、不良品になるのです。町内に傘屋は2軒ありましたが、昭和20年代になくなりました。」
 御荘平城の町並みは、昭和30年代までは町並みのまとまりが明確で、周囲に田園が広がっていた。町並みには店舗や公共施設が軒を連ね、人々が集まってにぎわっていたのである。

図表3-3-4 昭和30年ごろの平城の町並み①

図表3-3-4 昭和30年ごろの平城の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。★☆は同じ位置を示す。

図表3-3-4 昭和30年ごろの平城の町並み②

図表3-3-4 昭和30年ごろの平城の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。★☆は同じ位置を示す。