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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)ブラジル帰りのスタンド経営

 昭和30年代は海外移民が盛んに行われた時代であった。愛媛県からブラジルへ移民が行われたのは明治41年(1908年)が最初である。その時渡航した移民の中に上灘の人がいた。この先人を頼りに昭和32年(1957年)ブラジルに渡航し、2年で帰国して上灘へ戻り、家業を継いで石油店、ガソリンスタンドを経営した**さん(昭和10年生まれ)に話を聞いた。
 「昭和20年代、私の家は石油店を経営していました。漁船の燃料になる軽油が入ったドラム缶を、小網(こあみ)の漁師さんをはじめ上灘や下灘で販売していました。戦前から八幡浜の青木石油(太陽石油の前身)と取引がありました。戦時下は統制がありましたが、昭和27年(1952年)から自由販売ができるようになりました。トラックで運ばれて来た石油のドラム缶を、三輪トラックで配達していました。漁船は、各地の集落の漁家の軒先にありましたから、そこまで運びました。昭和28年(1953年)に上灘港ができると漁船は港に集まりましたが、港ができるまでは船を繋留(けいりゅう)する場所はなかったのです。
 高校卒業後、大学受験のため浪人していました。長男なので早く帰れと言われ、上灘へ帰ってきたのですが、上灘では物足りない感じがいつもしていました。ちょうどそこへブラジル行きの話があり、親戚(しんせき)を頼って渡航しました。双海は県内でもブラジル移民の多い地域です。ブラジルには昭和32年から34年まで、2年いました。
 行きの船は40日かかりました。行きは1,300人がブラジル丸に乗り、神戸から横浜へ回ってから太平洋を渡ってロサンゼルスへ、さらにパナマ運河から大西洋に出てブラジルへ行きました。
 2年後、ブラジルからの帰りの船は56日かかりました。ブラジルから大西洋を渡ってアフリカのケープタウンまで2週間、さらにインド洋のモーリシャスに渡って2日滞在しました。それからシンガポールを経て、日本へ帰ってきました。
 帰って昭和36年(1961年)に妻と結婚しました。当時の仕事は船の燃料油販売が主で、石油のドラム缶やプロパンガスなどを運んで仕事をしていました。
 その後、時勢の変化に合わせ、昭和38年(1963年)ごろに漁船相手の石油店をやめ、ガソリンスタンドを開業しました。スタンドは5丁目の北側に開業しました。法律が改正され、間口が20m、奥行き10mの広さがないとスタンドとして開業できないため、灘町の町並みの中では無理でした。そこで5丁目の町外れの土地を埋め立てて、当時としては大きなスタンドを造ったのです。
 最初は上灘じゅうの人が利用してくれました。ガソリンや軽油、灯油、またプロパンガスも扱っていました。当時はミカン景気で、ミカン1ケースを松山へ持っていったら一晩飲めた、という時代でした。
 しかし、スタンドは重労働である上に長時間労働でこたえました。家族が交代でスタンドに詰めていました。朝は6時になったらお客さんが来ます。一方、夜中の12時に下灘を出発して大阪方面へ行く運送便が2、3台あり、その給油のためスタンドを開けていなければなりません。その上、日中はドラム缶やプロパンガスの運搬も多くありました。町内をバイクで1日に350km走ったことがあります。朝6時から夜9時くらいまで配達でずっと走り回ったのです。ご飯を食べる暇もありませんでした。重いプロパンを運んで腰を痛めたこともありました。
 そのため、昭和45年(1970年)ごろ、農協に経営を譲りました。そのころバイパス道路が浜側に造られて、スタンド前の道は裏道になってしまった、という事情もありました。交通機関が変化するたびにその影響をうけたのです。国鉄ができて船がだめになり、海岸線のバイパスができて、旧道沿いのガソリンスタンドはお払い箱になりました。
 その後、看板屋になりました。習字が得意なので、看板の文字もうまく書けました。デザインを専門に勉強したわけではありませんが、昔から絵を描くのが好きで、絵心がありました。毎日仕事で松山に通っていました。」