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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)晒し蝋の仕事とともに

 化粧品やろうそくの原材料となる蝋(ろう)は、ハゼの実をもとに作られる。製蝋工程のうち、天日に生蝋(しょうろう)を当て、青色から白色に変色させる工程を晒(さら)し蝋(ろう)という。上灘の晒し蝋業は、内子より最盛期が20年遅れて大正時代に最盛期を迎え、内子が衰退してからも盛んであった。
 晒し蝋業は広い敷地が必要であったため、L字形の町並みの内陸側(現在の双海地域事務所やJR鉄橋・線路の敷地の一帯)に晒し場が広がっていた。上灘が内子に比べて晒し蝋業の立地上有利な理由として、次の6点があげられている(⑤)。①日照時間が長い。②原料や製品の輸送賃が安くつく。③生蝋搾(しょうろうしぼ)りと晒し蝋を兼ね利潤を確保した。④原材料の櫨(はぜ)が良質であった。⑤労働者が能率よく働いた。⑥雨量が少なく、日照が強い割に海陸風が吹いて涼しく、晒し蝋に適していた。
 戦後は生蝋搾りをする業者がなくなり、長浜の喜多製蝋所(きたせいろうしょ)の下請けで晒し蝋をしている業者が存続していたが、昭和45年(1970年)に廃業し、上灘の晒し蝋業はなくなった。
 上灘で晒し蝋の仕事をしていた**さん(昭和7年生まれ)に、上灘の晒し蝋業について話を聞いた。
 「蝋(ろう)の晒(さら)しは、上灘の町では1丁目や2丁目の西南側の土地で行われていました。今、役場や郵便局、農協がある場所も晒し場で、鉄橋の山手側にも広がっていて、かなり広かったです。地元の人だけでなく、長浜の沖浦(おきうら)からも人が来て、晒しの作業をしていました。
 蝋の仕事をした人間としては、私が上灘では最後でしょう。私は蝋製造の経営をしていたのではなく、請負(うけおい)(委託)でした。昭和24年ころから昭和45年ころまで、この仕事をしていました。
 1斤(600g)、2斤という単位で青い色の蝋を天日で晒して白い色にして、収入を得ていました。蝋は、化粧品やクレヨン、せっけん、ろうそくなどに使われていました。クレヨンは触ると少しツルツルしていますが、あれは蝋が入っているからです。火薬にも蝋が使われています。湿気を防ぎ密封するために使います。
 蝋は、長浜にある喜多製蝋所(せいろうしょ)からトラックで送られてきます。長浜の製蝋所でハゼを集めて煎込(いこ)んで、青味を帯びた色合いの生蝋(しょうろう)(青蝋)を作ります。それを上灘へ運び晒(さら)して色を白くし、不純物を分別するのです。1度晒して、釜で溶かします。釜で溶かす温度の加減が難しいのです。そして桶に入れ換え、不純物を沈殿させて上澄(うわず)みだけとるのです。
 夜、釜で溶かしたら朝の4時には上澄みを桶に取って分別をしなければなりません。その桶から、水を張った別の桶に蝋を流して浮かべると、花のような形の蝋ができますから、それを木箱に入れて干します。木箱は休みの間に私が作っていました。木箱はもろぶた(長方形の浅い木の箱)ほどの大きさで、深さが7cmくらいあったと思います。この時期には5、6人で作業します。空き木箱を15くらい重ねて運ぶ芸当ができる人もいました。干している時、木箱の底のほうにある蝋と上の方にある蝋とを入れ替えるために、全体を混ぜる作業があります。毎日、何百箱も混ぜる作業をするのです。最盛期には2,000枚の箱で晒していました。
 干している時、夏場は暑いため蝋が溶けてしまうので、水をかけてやらなければなりません。桶に水を汲(く)み、それをかかえ、箒(ほうき)の形にしたスギの葉を水につっこんで蝋に水をかけていました。井戸や田の水を汲んでいましたが、冷たい水のほうがよいので井戸水を使うことが多かったです。夏場は10回くらい水をかけなければならず、大変でした。
 午後2時になると作業をやめます。不思議なもので、2時になると横日(よこひ)になるのでその後は溶けません。それで2時からは昼寝をしていました。夕方になると、晒してある木箱を竹の棒でかき混ぜる作業をしていました。夜中でも雨が降らなければそのまま置いて、そのまま翌日晒していました。台風が来ると夜中でも木箱を集めてひもで縛って風で飛ばないようにするのですが、大風のため木箱が飛んでしまうこともありました。蝋は細かい粒ですから、拾うことが難しいので困りました。また、少々の雨ならかまわないのですが、大雨だと蝋が流れ出てしまうので、これにも困りました。
 晒して終われば、できた製品を喜多製蝋に引き取ってもらいます。喜多製蝋は、原料をいくら送ればどれくらいの製品が返ってくるか、その割合がわかっていますから、それを買い取るのです。木箱も使われている釘や木材の目方を量って、中身の製品の重さを計算して送ってきておりました。10kgの生蝋から7kgとか8kgは製品になるというように、きっちり計算して請負の仕事をさせるわけです。それでもうまくやれば余分ができますから、それをよその業者に売ることもありました。
 仕事でしんどかったのは、夜寝られなかったことです。いつ風が吹くか、雨が降るかわかりませんから。夏は、蝋を溶かして沈殿させるのに時間がかかるので、午前2時に起きてやっていました。朝方の涼しいうちに作業するのがよいのです。反対に寒すぎると蝋が固まってしまいます。また、青い蝋にはかぶれる成分がありますから、人によって皮膚がかぶれてしまいます。晒し終えて白くなればそのようなことはありませんでした。
 上灘には何軒か蝋屋がありました。丸山さん、本田さん、岡崎さん、若松さん、大和屋さんなどがあったように思います。鉄橋の下に大きな臼(うす)のような道具が残っていましたが、あれは蝋を絞る道具ではなかったかと思います。私はよく知りませんが、自分で製造していた元請(もとうけ)の道具でしょう。戦後はそのような元請の店は上灘にはなく、みな晒しの請負(うけおい)でした。
 寒い時期には白く晒すことができません。それで、3月末から10月末までの暖かい時期に晒しの仕事をしていました。冬場寒いために仕事がない時は、ハゼを集荷して運ぶ仕事もしていました。ハゼの実は周桑(しゅうそう)郡の丹原(たんばら)で買い集めて長浜へ運んでいました。周桑のハゼは脂分(あぶらぶん)が多いのでこの辺りのハゼより品質が良いのです。実と皮の間に綿のようなものがあり、それに脂分が含まれるのですが、周桑のハゼはその綿が多いのです。またきれいな白色になるのです。蒸してしぼると、綿のようなものが流れて出てきますから、これを集めて蝋を作るのです。
 ハゼの実は、集めて袋にいれると160kgにもなりました。これをかついで運ぶ仕事があるのですが、やり手がなかなかいないため、長浜からわざわざ雇いに来てくれました。周桑でトラックいっぱいになるまで積み込み、長浜ではトラックから倉庫へ運び込むのですが、倉庫の上の収納庫にいれる作業もあり、力がいるのです。
 戦時中も蝋の晒しをしていましたが、近所の人から『目立つので敵機の標的になる。』と言われていました。戦後しばらくの間は、蝋が高値で売買されたので、景気がよかったです。一時、苛性(かせい)ソーダと蝋からせっけんを作りましたが、本物のせっけんほどは品質が良くないので、長続きしませんでした。」