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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(4)町のできごと

 ア 相撲巡業

 **さんは相撲巡業について次のように話す。
 「昭和30年代には、相撲の巡業も毎年のように来ていました。鏡里(かがみさと)(元横綱)とか、大内山(元大関)、大蛇川(おろちがわ)(元十両)らが来ました。うちが旅館でしたが、父が『便所の座が抜けるから、こらえてくれ。』と宿泊をお断りしたため、自動車修理をしていた**さんの家に泊まったのを憶(おぼ)えています。相撲は、灘町3丁目の浜でしていました。昔は浜が広く、中山や長浜(ながはま)からも相撲の観客が集まり、にぎわっておりました。」
 **さんも次のように話す。
 「私が小学校6年か中学生のころ、鏡里が相撲巡業で来ました。大内山は常小屋(じょうごや)に泊まりました。力士はほうぼうの家に泊まり、横綱の鏡里は上灘駅前の矢野旅館に泊まるというので、みんなで見にいったら、付き人にお湯をかけられたのを憶(おぼ)えています。相撲興行の時は、ものすごい人出でした。」

 イ 開港祭

 昭和28年(1953年)10月、上灘港の開港を記念して開港祭が行われた。この開港祭は上灘灘町挙げての大イベントであった。**さんは話す。
 「上灘には船着場はありましたが、港らしい施設はありませんでした。昭和28年(1953年)、港ができたことを祝って、灘町の人たちが仮装したり踊ったりしながら町を練り歩きました。」
 開港祭について、『上灘町文化協会広報』第32号(昭和28年12月15日発行)で、当時、町区長であった**さんは「港祭によせて」と題して、この時の様子を詳細に記している。**さんは役場に勤めていて、上灘町文化協会の演芸の役員もしていた人物である。
 10月10日、港を中心に約4,000人に近い観衆が集まり、埋立地で漁港竣工式典が行われた。満艦飾の漁船約60隻が入港して餅撒(もちま)きが行われた。開港祭の余興である出し物と造り物は灘町の丁目ごとに競って行われた。それらの評として**さんは次のように記している。
 「(出し物は)各丁目とも踊りのほかに上灘音頭を取り入れ、上灘の情緒を織り込み、趣向は開港祭だけに港、海にちなんだ屋台がほとんどで、いでたちも又これにちなんだものが多かった。(造り物は)出し物同様開港を祝す意味のものがほとんどで、いずれも兄たりがたく弟たりがたい(甲乙つけがたい)出来ばえ、特に簡単な用具でなかなか考えたものに3丁目の碁盤があった。」
 開港祭の時、5丁目の出し物で奴(やっこ)の役をした**さんは次のように話す。
 「その後も、町制30周年記念とか、時々の祭りで、仮装行列などの出し物をやったものです。一家に1人は出すようにしていました。ある時、4丁目は花咲かじいさんを、3丁目は鯉の滝登りをしたのを憶えています。作り物を見せながら町内を練り歩くのです。昭和50年代まではやっていたように思います。そういうことが楽しみでした。」
 昭和の街かどでは、地域全体のお祝いの時には、人々が行列を組んで仮装をしたり踊り歩いたりして、住民みんなで楽しむのが当たり前のように行われていたのである。