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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)町と村のつながり

 **さんや**さん、**さんは人やモノの往来について次のように話す。
 「昭和30年代には、バスで品物も運んでいました。例えば、高野川(こうのかわ)の人が上灘灘町の店に品物を頼むと、店の人が停留所に注文の品を持っていき、バスの運転手か車掌に託します。高野川のバス停に着くと、注文した人がバス停で待っていますから、その人に品物を渡すのです。伊予鉄の路線バスの運転手が気安く運んでくれました。タバコや魚、海産物など、定期便で運んでいたように思います。この運送代はサービスで、品物の支払いは節季払い(盆前と年末にまとめて支払う)だったように思います。
 上灘の町には、中山(なかやま)や佐礼谷(されだに)あたり、石畳(いしだたみ)(内子(うちこ)町)からも山越えで人やモノがやって来ていました。よく馬に材木をひかせて運んで来ていました。反対に、中山や佐礼谷へ魚行商に行っている人がおりました。紋日(もんび)(祭礼などハレの日)の前には、農作業が終った夜に地元の人が買いに来ていたそうです。今もそうですが、中山ではタコがよく売れました。骨のないのがよく売れるのです。内子は焼きサバが有名ですが、中山はタコです。
 昭和20~30年代、灘町は周辺の海岸部や山間部に住む人々が行き来し、活気がありました。朝、松山や郡中に通勤・通学する人々が灘町を通って上灘駅に集まり、にぎわいました。松山駅に向かう上り列車は、上灘駅で満席でした。夕方、下り列車が上灘駅に着くごとに、列車から大勢の人が降りて、灘町を通って帰りの道を急いでいました。」