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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)上灘灘町の街かど-あの店、あの仕事-

 上灘灘町の町並みは、5つに分かれている(図表3-2-3参照)。由並(ゆなみ)小学校近くの海岸沿いに走る街道一帯の町並みを4丁目、それを東北に進むと3丁目、2丁目となる。2丁目で街道は、中山方面に向って山手へ進む道と海岸沿いに伊予市郡中方面へ進む街道とに分岐する。山手のJR鉄橋一帯の町並みを1丁目、橋を渡って海岸沿いの町並みを5丁目と呼んでいる。もとは上灘川左岸の1丁目から4丁目までであったが、上灘川右岸の宮崎(みやざき)を御幸町(みゆきちょう)と呼ぶようになり、さらに5丁目と改称した。
 上灘灘町で長年生活してきた人々に、昭和30年ごろ、灘町の町並みにあった店舗の名前を思い出してもらい、灘町の町並み地図を作成した(図表3-2-3参照)。この地図をもとに灘町の人々から話を聞いた。

 ア 灘町1丁目

 「戦争前後の時期、1丁目にあった**さんという炭屋さん(図表3-2-3のソ)が、炭を浜から関西方面に送り出していました。3丁目の海岸に炭の倉庫がありました。戦前には、八幡浜(やわたはま)の業者が上灘の浜に船で来て、イリコやろうそく、炭を船に積み込んで大阪の市場に持ち込んでいたと聞いています。町には今も連子窓(れんじまど)(窓枠に細長い木材を並べた格子(こうし)の窓)のある家が残っています。」

 イ 灘町2丁目

 「昭和30年代には、灘町に映画館が2つありました。そのうちの一つ由並館(ゆなみかん)(図表3-2-3のタ)は、現在の双海地域事務所の前にありました。由並館は狭いので、芝居はしておらず、映画だけでした。旅館(図表3-2-3のセ)には、昭和30年代、行商の人、例えば富山の薬売りが宿泊することがありました。**さん(図表3-2-3のス)は、大正ころまでは蝋屋(ろうや)でした。沖を行く船が見えやすい木造3階建ての建物が今も残っています。
 2丁目は各家に井戸がありましたが、昭和21年(1946年)の南海地震の後、塩水が混じるようになり、一時期塩水か真水かわからない状態でした。そこで、昭和30年代になって、山手から水を引いて水道を作りました。
 夏になると、5丁目と2丁目を結ぶ清流橋から2丁目にかけての路地のあちこちで、夕涼みをしていました。夕方になると風が吹いて涼しいので、長イスを出して飲んだり将棋をしたりしていました。子どもも、道端でスイカを食べたり花火をしたりして遊んでいました。夜遅くまで騒いでいると、近くに住んでいる人から注意されることもありました。」
 
 ウ 灘町3丁目

 「昭和30年代、この辺りは一等地で、町はずいぶんにぎやかでした。海手側には、蔵や船小屋(ふなごや)がありました。今はしませんが、船を浜へ引き揚げて干していました。『助け船』という12挺櫓(ちょうろ)の船(12人のこぎ手を配置できる救難船)もありました。
 共同井戸があり(図表3-2-3のウ)、3丁目や4丁目の水源になっていました。井戸水をやぐらの上のタンクに貯水しておき、そこから各戸に配水されていました。
 道路北側の『左官・石工・げた』とある家(図表3-2-3のエ)は、昭和20年代には文房具屋でした。道路南側の歯医者(図表3-2-3のキ)は、戦前は金物屋でした。『宿泊・料亭』(図表3-2-3のア)は、『つたや』という旅館でした。上灘で一番の格式がある旅館であったと思います。
 郵便局(図表3-2-3のイ)は、3丁目にありました。昭和30年代になって、今の消防署の所に移転し、さらに平成2年に現在地へ移転しました。
 3丁目から役場(現在は伊予市双海地域事務所)前を通って山手へ向う道路は、井上熊太郎町長の在職中(大正6~12年)に造った道だと聞いています。反対の声もありましたが、町長が『何十年か後には、今度造る道路が狭くなるだろう。』と言って、反対を押し切って造ったと聞いています。」

 エ 灘町4丁目

 「4丁目の浜に突堤がありました。20mほど海に突き出ていました。浜が近かったので、由並(ゆなみ)小学校から出たサッカーボールが海に落ちていました。昭和20年代には、夏、浜の海岸の石垣に番傘(ばんがさ)を挿(さ)して干していました。大風が吹くと飛ばされて、拾いに行っておりました。
 道路北側の竹細工屋の場所(図表3-2-3のカ)は、戦争前は警察があり半鐘台もありました。後に半鐘台を消防署の所に移しました。竹細工屋では、ご飯を入れて保存する『スリカケ』というかごを作ったり、麦や米を選別する時に使う箕(み)や竹かごを作ったりしていました。
 道路南側の民家(図表3-2-3のク)は、昭和11年まで町役場があった所です。金物屋さん(図表3-2-3のオ)は大工もしていました。材木屋(図表3-2-3のケ)は材木を売買し運搬する仕事をしていて、製材所はありませんでした。
 町の西の端には、**さんという金融業者がつくった石造りの灯台(図表3-2-3のコ)がありました。五輪の塔のような角石の上に丸石が載った形でした。今考えると、残しておけばよかったとつくづく思います。
 戦前には、4丁目の西の道沿いに桜並木がありました。石の灯台の向こう、上灘駅から海岸沿いに桜並木が続いていました。春になるとぼんぼりがつけられ、花見の人々が三味(しゃみ)・太鼓を演奏するなど、風情(ふぜい)がありました。」

 オ 灘町5丁目

 「灘町5丁目は、明治時代には、私(**さん)の家のほかは、お宮ともう1軒しかなかったように聞いています。塩田が5丁目の東の海沿いの土地にありましたから、もともと低い土地でした。塩田は、戦時中に作られましたがすぐ廃止され、昭和20年代にでんぷん工場ができました。
 5丁目には劇や映画を見ることができる芝居小屋がありました(図表3-2-3のサ)。昭和10年(1935年)ごろは寿(ことぶき)座といい、回り舞台や花道がありました。私が小学生の時、ここで学芸会をしたことを憶(おぼ)えています。戦後になって寿座は海栄座(かいえいざ)と改称され、芸能人では、川崎弘子や福田蘭童(らんどう)らが来ました。興行がある時は、地元の人が興行主になって運営していました。
 昭和20年代の中ごろのことですが、上灘町文化協会では、浜井秀国さんらが中心になって、海栄座で演劇をたびたびやっていました。5丁目の人たちは、みんなで『宮崎劇団』を作っていました。宮崎というのは、5丁目あたりの古い地名です。戦後、大陸から引き揚げてきた人が多くいたので劇団を組むことができたのです。この劇団では『父帰る』、『湖畔の宿』、『獅子』などを演じていました。全体の脚本は持っていませんが、自分(**さん)の出番のところの脚本は、今も持っています。劇は20日前後練習していましたが、『父帰る』の時は10日くらいでやりました。セリフを覚えなければならないので毎日一生懸命やりました。衣装や舞台セットなどもみな手作りでした。そのころは娯楽がなかったので、青年団が演劇を盛んに行っていて、地域の人たちもそれを楽しみにしていました。青年団の大会が伊予市の郡中にあった寿楽座(じゅらくざ)であり、そこに行って演劇をしたこともありました。
 清流橋を越えると灘町の古い町並みとは別世界で、人の集まる新開地でした。海栄座では、芝居と映画とを合わせた連鎖劇もありました。連鎖劇は、劇の途中に映画をしたり、あるいは映画の途中に劇を上演したりするものでした。芝居は地元の人がするのではなく、映画と一緒に芸人がやっていました。映画が途中で終って、その続きを芸人が上演するのです。画面に合わせて話をする弁士も5丁目に住んでいました。だいたい時代劇が多かったように思います。
 海栄座は、郵便局長さんが経営していたと聞いています。その後、名前が変わり常小屋(じょうこや)になりました。常小屋では映画や演芸をしました。志村喬(しむらたかし)(俳優)が来たというので、みんなで小屋に押しかけたことがあります。中学生になると映画館に行ってはいけないと学校で止められました。それでも、由並館(ゆなみかん)にカッパを着て隠れて見に行くと、すぐ隣に先生がいてびっくりしたことがあります。
 戦後の人々は娯楽に飢えていました。映画や演劇が上演される日、劇場はいつも満杯の状態でした。牛の峯(みね)に近い東越(とうごえ)や高岸(たかぎし)(いずれも双海町内の地名)の人々は、テーラー(耕耘機(こううんき))で引っ張る台車に家族や知り合いを乗せて劇場へ行っていました。当時まだ舗装されていない灘町の道路を、10数台のテーラーが大きな音をたてて劇場に向う様子は、驚きでした。
 ブリキ屋さん(図表3-2-3のシ)は、雨どいや米をいれるブリキの丸い入れ物などを作ったり、修理したりしていました。
 お旅の松という大きな松が、5丁目の浜辺の近くにあり、非常に大きかったのを憶(おぼ)えています(図表3-2-3参照)。また神社の境内にも大きな松がありました。」
 上灘灘町の町並みには、周辺や地元からの買い物客を相手にするさまざまな商店が軒を並べていた。町の人たちは、自分たちの生活を高め、楽しむための文化的な活動もさかんに行っていたのである。

図表3-2-3 昭和30年ごろの上灘灘町の町並み①

図表3-2-3 昭和30年ごろの上灘灘町の町並み①

調査協力者からの聞き取りにより作成。★☆は同じ位置を示す。

図表3-2-3 昭和30年ごろの上灘灘町の町並み②

図表3-2-3 昭和30年ごろの上灘灘町の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。★☆は同じ位置を示す。