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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)人の往来

 **さんや**さん、**さん、**さんが人の往来について話す。
 「波止浜には、本町に服部医院(内科)、高須医院(眼科・内科、図表3-1-3のシ)、蓬莱町に飛田医院(図表3-1-3のス)があり、他に歯医者もありました。昭和30年代当時は、波方町には病院がなかったので、波方の各地からも大勢の人が波止浜へ通院していました。砂場(さば)や大浜(おおはま)(いずれも波止浜の東、糸山をはさんで来島海峡沿岸の集落)からも来ていました。
 昭和30年代の終わりころには、波止浜の町の中心は本町通りでしたが、その後塩田跡が埋め立てられ、龍神社(図表3-1-3のチ)の南側一帯に、銀行や郵便局が立ち並び、中心が移っていきました。
 町に来ていた魚売りは、戦前には、小さな俵を頭に当てて、樽を頭にかぶって(載せて)来ていました。中にはギザミやホゴを入れていました。手押し車に積んで来たのはもっと後です。『魚いらんかな。』と言って家を回っていました。最近まで、波方から来て魚を売る人もいました。また、野菜を売りに来る人もいました。
 昭和40年(1965年)当時、塩田跡を通る道は、舗装されていませんでした。今は幅の広い大通りになっていますが、昭和40年ごろはまだ狭い道で、雪が降ると泥道になり、自動車が通ると泥をはねかけられたり、道からすべり落ちたりしました。それで、小学生は、東側の塩田跡の中の小道を通学していました。」
 造船所が忙しい時は、関連の仕事も増え、町全体に活気がありました。蓬莱町の角に酒屋(図表3-1-3のタ)があって、昭和30年代や40年代には、造船所で働いている人々は仕事帰りにこの店で酒を買って飲んでいました。このような工員相手の店が、町のあちこちにありました。当時は徒歩や自転車で造船所に通っていました。」
 昭和40年(1965年)の調査(②)に基づいて計算すると、波止浜湾岸の造船所10工場で働く従業員数は、3,866人である。波止浜塩田最盛期である昭和24年(1949年)の塩業従事者数は、常雇い255人、臨時223人とされ、造船業従事者数の方がはるかに多い。このため、造船所付近の道路やバス、国鉄駅は、出勤・退社時に激しいラッシュ現象を起こしていたという(②)。