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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)三津浜競馬場の盛衰

 ア のどかだった地方競馬

 三津浜競馬場は昭和4年(1929年)に開設されたが、最初は三津浜近辺の百姓馬(農耕馬)が集まって競馬をしていたらしく、農家の娯楽のようなものだった(最初は愛媛県畜産組合連合会主催。)。その後、軍隊の馬の鍛錬場となった(国家総動員法の公布をうけて、地方競馬のあり方を変えるべく昭和14年に制定された軍馬資源保護法により、軍用保護馬鍛錬競走という名称で競馬は開催された。戦局の悪化で昭和19年に中止を余儀なくされ、昭和20年終戦によりこの法律は廃止された。)。戦後、正式に競馬法(昭和23年)ができ、県の畜産課が主催して地方競馬を始めた。
 「三津浜競馬場のトラックの中には、近隣の農家の田畑がありました。うちの畑は、ちょうど決勝点の前あたりにありました。畑では麦やイモを作っていました。戦後、トラックの中で2、3の農家がサトウキビを作っていましたが、サトウキビの背が高く、観客席から走る馬が見えなくなったため、県から切るよう指示されたことがありました。
 戦後松山に進駐軍がやってきた時、最初の野営地は三津浜競馬場でした。ここに何十というテントを建て、一月か二月駐屯していました。その後に三津の女子師範学校や松山市内に移動していったのです。進駐軍が引き揚げた後、競馬場内のうちの畑を耕し始めると、地中から進駐軍が残していったガソリン入りのドラム缶が次々と出てきてびっくりしました。うちの畑だけで7、8本出てきたのです。ガソリンが危険物なので埋めたのかどうかは分かりませんが、そのままほったらかしていったのです。当時は自家用車のない時代で、自分で使うこともできず、危険なので役場に始末してもらいました。
 観客席は、最初は丸太を組んで作った一段だけの簡単なものでした。しかし私が競馬をやり始めたころに立派な観客席ができました。前の一列は丸太を組んだ席でしたが、その後ろに県が5、6段の観客席を作り、一番後ろには屋根もつきました。高いところから競馬を観戦できるようになったのです。当時の決勝点は三角屋根の2階建ての建物で、審判員はゴールの線を通過するのを目測で判定していました。今のように写真判定がないため、鼻の差くらいの微妙なときは難しかったと思います。当時は競馬開催の前に、宣伝を兼ねて10頭くらいの馬が三津の町内を練り歩きました。
 中央の有名な騎手が三津に来ることもたまにありました。もちろんこういう騎手は甲馬に乗ります。専属騎手として馬と一緒に来るのです。これに対して農耕馬の騎手は、レースの前日に前夜速報というレースの組み合わせが出た後、馬主が指名します。地元松山の騎手は2、3人くらいで、中央の若手が多かったです。当時は騎手学校がなかったので、騎手志望者は騎手に弟子入りして学びました。しかし向こうでは乗れないため、実戦を経験するためにこっちに来たのです。
 三津浜競馬場の近くには、『蹄鉄の神様』とも言われ、日本で5本の指に入る腕の良い蹄鉄屋の山本喜重さんがおりました。三津の馬の蹄鉄は、この人が一手に引き受けていました。
 三津浜競馬は年に12回ありました。県の畜産課主催が10回、今治市主催が2回です。1回の競馬は1週間ほど開催され、1日に12レースあります。ですから集まる馬は多いときで140、150頭もいるのです。馬は1日に1レースしか出ません。毎日レースに出れば7回レースに出られますが、馬の疲労を考えると毎日出ることはほとんどありません。私の馬は甲馬か乙馬でしたので、1回の競馬で1、2レースしか出ませんでした。県外の競馬場ばかり転戦していたら、県の畜産課の課長から、『地元の三津浜競馬を優先してほしい。』と連絡があったりもしました。地元の良い馬はできるだけ協力してほしいということでした。良い馬が出ないと盛り上がらないため、観客も集まらないし収益も上がらないのです。わざわざ『引きつけ手当』という旅費を負担して他県から良い馬を招いたのは、そういう事情があったからです。私は地元でしたが、主に県外のレースに出ていたので、県から『引きつけ手当』が出ました。
 当時の入場料は大人で3円くらいでしたが、競馬場へはどこからでも入れたので、近所の人は適当にもぐりこんでいたように思います。入場料を払うと、糸のついた紙のステッカーのようなものをくれ、それを胸につけていました。子どもの入場料はただでしたが、馬券は売ってくれません。子どもが買おうとすると、手が小さいのですぐにばれ、投票所(売り場)の窓口で手をたたかれました。
 入場門を入ったところに下見所(パドック)があり、ここでレース前の馬を観客に見せます。検量場(けんりょうば)(検量所)というのもあります。騎手はレース前に『負担重量』というのを決められます。時計(タイム)でクラス分けされ、更に優勝回数が多い馬は負担重量を重くして(ハンディをつけて)レースに臨まなくてはならないのです。その負担重量が正確であるかどうか、レースの前と後で測るために検量場がありました。重量が足りない場合は、騎手が勝負着の下に着る服のポケットに鉛を入れて調節します。もちろん重量が少しでも軽いほうが馬は早く走れるのですが、レース中に重りを落としてしまったら、いくら1着でゴールしてもレース後の検量で分かるために失格となります。こうしてハンディをつけて、出走する馬の勝負が面白くなるようにしたのです。昔の草競馬は走る距離にハンディをつけたりもしていたようです。強い馬は後ろからスタートしていたのです。
 トラックは一周1,000mで右回りでした。新馬は走る距離が700mなので決勝点の300m前からスタートします。ほかはだいたい丁馬で1,200m、丙馬1,400m、甲馬、乙馬は1,600mなので、それぞれスタート地点が違います。私がやっていた時代は、フラッグマンが台の上に上がり、赤い旗を振ってスタートの合図を出しました。用意の合図で馬はスタートラインに並びますが、なかなかライン上にきちんと整列できません。フラッグマンが『まだまだまだ、○○号下がれ。』などと言って整列させ、タイミングを見て『ゴー』とフラッグを下ろしたら、多少そろってなくてもスタートです。スタートラインは地面に石灰で線を引いているだけでした。
 地方競馬でも兵庫県尼崎(あまがさき)市の園田(そのだ)競馬場や大阪の春木(はるき)競馬場にはきちんとスタートゲートがありました。三津競馬のような田舎の馬が大阪などに行くと、スタートゲートが開いたとたんびっくりして後ろに下がってしまい、大きく出遅れることがありました。」

 イ 「潮入れ」ができる競馬場

 「三津にいるときは、よく馬を連れて梅津寺(ばいしんじ)海水浴場に行きました。レースのない日には、朝1時間、夕1時間の『乗り運動』(厩(きゅう)務員などが馬に乗って歩行訓練をすること)をします。レースのあるときには馬に負担がかからないように『曳(ひ)き運動』(厩務員などが馬を曳いて歩行訓練をすること)をします。乗り運動で梅津寺に行き、高校や大学のボート部の艇庫があるあたりから砂浜に出て海に入り、腹がつからない程度の深さのところでしばらくじっとしています。そこで熱を持った馬の足を冷やすわけです。30分くらいして砂浜を2、3往復走らせます。その後、再び海に入り冷やしてから家に帰りました。これを『潮入れ』と言いました。三津浜競馬場は『潮入れ』ができるので評判が良く、よそから来た馬はみんな梅津寺に行きました。『潮入れ』は馬の足の関節の熱をとるので、治療方々泊り込みで2か月も3か月も来る馬もいました。人間でいう湯治のようなものです。馬は泳ぎが達者で、夏には深いところを泳いだりもしました。馬が泳ぎだしたら人間は手綱を握って横にぶら下がっているだけです。梅津寺海水浴場でもボート部の艇庫があるあたりは海水浴客も比較的少なかったのですが、当時はのどかな時代で、人と馬が一緒に海水浴を楽しんでいたのです。
 道後にあった牛馬湯にもたまに行きました。牛馬湯は道後温泉の廃湯を利用したもので、現在の椿湯の西にありました。流れてきたお湯がここに溜められていましたが、けっこう広く、馬の腹が浸かるくらい深いところもありました。冬場は湯気が大きく上がっているため、最初は怖がりますが、一度入ったら、後は気持ちよさそうにしています。ここには主に近所の農家の牛馬がきていました。」

 ウ 競馬場と三津浜の町

 「昭和20年代は娯楽があまりなかったため、三津浜競馬場の観客は多かったです。当時私は伊予鉄三津駅と競馬場の間あたりに住んでいたのですが、競馬が開催される日は、家の前の道が客でいっぱいになりました。自家用車がほとんどない時代だったので、交通機関は伊予鉄か国鉄しかありませんでした。多いときには7,000人か8,000人くらいのお客さんが来ていたように思います。
 競馬がある時は、三津浜地域の人が競馬場内で場内整理とかのアルバイトをしていました。投票所で馬券を売っていたのも近所の女性です。臨時の馬宿、民宿もできました。近隣の人にとっては臨時収入を得る手段として、競馬はありがたかったのです。競馬場内には、『1円ちがい』という商売をする人もいました。当たり馬券を現金に換えるため交換所に並んでいると、次のレースの馬券が買えないので、馬券をすぐに現金と交換してくれる両替屋がいたのです。首からぶら下げた大きなかばんに札束が入っており、当たり馬券を1円ちがいの現金と交換しました。例えば1,000円の当たり馬券は999円の現金と交換します。1円がこの商売の利益(手間賃)なのです。
 当時は三津に遊郭があり、住吉町(すみよしまち)商店街もにぎやかでした。競馬で稼いだお金で遊郭に泊り込む人もいたのです。私が二十歳くらいのころ、馬を連れて三津の町を歩いていたら、派手な着物姿の遊女が寄ってきて競馬の出走表を見せ、『この中でどの馬が強いのか、丸をつけておくれ。』とせがまれたこともありました。三津の遊郭も三津浜競馬が廃止されたすぐ後になくなりました。
 競馬のある間は、伊予鉄も市駅・三津間で臨時電車を走らせました。臨時電車が出るのは競馬のときと、神輿(みこし)の鉢合わせで有名な三津厳島神社の秋祭りのときだけでした。」

 エ なくなった競馬場

 「三津浜競馬場は昭和30年(1955年)になくなりましたが、これは昭和25年堀之内に松山競輪ができ、客をとられたためです。松山競輪は年に10回くらい開催されていたように思います。当時の競輪は半分くらいが女子競輪で、競馬に来ていた人はみんなそっちに移ったのです。このため、三津浜競馬は人が集まらなくなり、採算がとれなくなりました。それと馬自体が少なくなったのも大きく影響しています。軍馬はもちろん、荷馬車の馬や農耕馬がいなくなり、レースに出る馬が少なくなったのです。中央の競馬場なら全国から良い馬が集まり、レースも盛り上がりますが、三津は農耕馬などが半数以上を占めていたため、農耕馬がいなくなるとレースを維持できなくなったのです。
 三津浜競馬場がまだあったころ、うちの近所に競馬の好きな青年がいました。高校在学中から県外を転戦する私を追いかけてくるくらい競馬好きでしたが、彼はその後騎手になり、キーストンという馬で日本ダービーを制しました(昭和40年)。しかし彼は三津競馬では走ったことはありません。彼が騎手になったのは三津浜競馬場がなくなった後のことなのです。」
 三津浜競馬廃止後、競馬場の土地は払い下げられたが、走路だけはしばらく後まで残っていた。競馬場のあったところは、現在ほとんどが住宅地となり、競馬場のあった名残は、走路の一部が道路となって残っているのみである。