データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)競馬に魅せられて

 ア 実家が馬宿

 「私は昭和6年(1931年)に北条(ほうじょう)(現松山市北条)で生まれましたが、ほどなく三津に移ってきました。競馬の世界に入ったのは、昭和24年に旧制中学を卒業してから1、2年後です。
 そのころうちの家は馬宿(うまやど)を営んでいました。今でいう民宿のようなもので、近隣の農家が厩舎(きゅうしゃ)を建てて、三津浜競馬に各地から集まる馬や騎手、馬主などを泊めていたのです。ほとんどの馬宿は中須賀(なかすか)町にありました。7、8軒はあったと思います。一つの馬宿には2、3頭から7、8頭の馬が泊まれました。うちにも5、6頭泊まれました。もちろん競馬場内にも内厩(ないきゅう)という厩舎がありましたが、競馬が開催される時は、多いときで140~150頭も馬が集まるため、厩舎が足りなかったのです。内厩は現在の四国明治(株)松山工場の裏辺りに1棟あり、20~30頭くらい入りました。
 三津浜競馬場に来る馬は6割くらい県内からですが、四国の他県や大阪などからも来ました。馬宿には主に他県から来る馬が泊まります。県内の馬は、新居浜(にいはま)や今治(いまばり)くらいなら日帰りで来ました。久万(くま)からも日帰りで来ますが、昔の三坂(みさか)峠は難所で、日帰りはきついため泊まる場合もありました。遠くから来る人は、早めに来て馬を休憩させていましたが、当時は馬のコンデションなどあまり考えてなかったように思います。昭和23年(1948年)ころの話です。競馬は大体1日12レースで6日間くらいありました。1レースに多いときで15、16頭から20頭くらい出走しました。
 高知など遠方から来る馬は、良い馬が多かったです。競馬専門の馬です。このあたりの馬は農耕馬が大半です。農耕の合間に競馬に出るわけで、能力もあまり高くなく、ランクわけをすると一番下でした。昔、競馬の馬は、一番上のランクが甲馬、次いで順に乙馬、丙馬、丁馬となります。一番下の丁馬だけは、丁1から丁6までのランクがありました(現在は年齢や獲得賞金等により『明け3歳〔満2歳の馬で、年が明けても3歳の誕生日が来ていない馬〕』、『3歳』、『一般』といった区分や、ABC方式の格付けなどが行われている)。ランクは、勝ち数と獲得賞金額、走ったタイムにより分けられます。農耕馬でも走ればタイムが記録され、『ブック』という身分証明書、履歴書のようなものに記入され、ランク分けされるのです。全国の競馬場で走った記録が『ブック』に記入されます。競馬専門の馬は、甲馬、乙馬がほとんどです。甲馬、乙馬のレースは賞金も高いのです。地方競馬でも大阪や姫路などには良い馬がたくさん集まるので大きなレースができますが、三津などの田舎では良い馬は集まらず、6日間で甲馬のレースが多くて2レースくらいしかできないのです。甲馬は甲馬同士でないとレースはしません。下のランクの馬とはレベルが違うのです。近隣の農耕馬はランクでいうと丁5から丁6くらいです。農耕馬や馬車馬の中にも速いのがおりましたが、それでも丁馬(丁1か丁2)で、丙馬まではいきません。競馬専門の馬とはサラブレッドやアラブで、これらが甲馬、乙馬にあたります。農耕馬は中間種、いわゆる雑種です。馬は血統が6、7割で、残りは乗り手の腕で勝つといわれます。それだけ血統が大切なのです。」

 イ 競馬の世界に入る

 「旧制中学を卒業後、九州の八幡(やはた)製鉄所に就職が決まっていたのですが、入社するまでに向こうの食糧事情が悪いことや、行った先輩たちが次々に帰ってきているという情報が入ってきました。うちは農家で食糧があったため、無理をしてまで行かなくてもよいということになったのです。ちょうど父が定年退職して田畑と山を購入し、百姓をやり始めたころでした。
 馬宿をしていた関係で、馬主さんともなじみになり、時々馬の世話を手伝うようになりました。乗馬は自然に身につけ、馬に乗って運動させたり梅津寺(ばいしんじ)の浜に出かけたりしていました。そんないきさつで競馬の世界に入ったのです。
 競馬の世界に入ったのは昭和26年(1951年)ころですが、最初父に馬を2頭買ってもらいました。2頭とも4歳馬で、北海道の十勝(とかち)で買いました。買いに行ったのは私と騎手、別当(べっとう)(厩務員(きゅうむいん))の3人です。騎手を連れて行ったのは、馬を買うときに実際に乗って走らせ、様子を見るためです。地方競馬では、公認競馬(今の中央競馬)で故障し、公認を退いて牧場で1年かそこら養生している馬を買って走らせることも多いのですが、その場合、どの程度故障が治っているか見極める必要がありました。故障上がりの馬は健康な馬に比べて安かったのです。それでも良い馬は結構高く、北海道には1頭につき当時のお金で70万円の手付け金を持って行きました。今でもちょっといい馬は値段が高く、1千万円を超えます。別当は馬の世話をします。当時は馬を貨車で運んでおり、北海道から松山まで3日もかかりました。長い道のりなので、貨車で寝起きして馬の世話をする人が必要でした。
 馬を買って帰る途中、早速京都の長岡(ながおか)競馬場でレースに出ました。うちの馬は4着か5着だったように思います。3着までは表彰されますが、4、5着でも賞金は出ました。輸送費くらいにはなったと思います。私は2頭買いましたが、親戚(しんせき)に頼まれた馬も合わせて5頭の馬を連れて帰りました。
 最初に買った2頭の馬の名前は『第一アポロ』と『福春(ふくはる)』でした。『第一アポロ』は甲馬で、北海道からの帰りに長岡競馬場のレースに出したのはこの馬です。もう1頭の『福春』は乙馬でした。」

 ウ 馬主として全国をまわる

 「その後、私は2頭の馬と各地を転戦しました。普通の馬主さんは、馬は調教師に預けますが、私は自分で調教したのです。毎朝4時、5時といった暗いうちから起きて馬の世話をしました。しかしレースに出るためには、正式な調教師、相撲でいう『部屋』のような所に入る必要がありました。調教師の下に騎手が7~10人専属でいるのです。前日までに調教師のところに行き、自分の馬に乗る騎手を決めました。レースが終わると、獲得した賞金から諸経費を支払って次の競馬場に移動します。次の競馬場へ出発するのを『御立(おた)ち』というのですが、成績不振で経費が支払えない場合もあり、親に『金足らず、御立ちできず、○○円送れ』と電報を打ったこともありました。たいてい支払いできるくらいは馬が稼いでくれました。
 三津浜競馬のとき以外は、ほとんど県外の地方競馬を回っていました。北は新潟にも行きましたが、主に山口県下関の小月(おづき)(昭和6年~38年)、広島の福山(ふくやま)(昭和24年~現在)、岡山の原尾島(はらおじま)(昭和8年~28年)・三幡(さんばん)(昭和28年~33年)、姫路(ひめじ)(昭和24年~現在)、大阪の春木(はるき)(昭和3年~49年)、京都の長岡(ながおか)(昭和4年~32年)などの競馬場を転戦しました。地方競馬の馬は、公認競馬場のレースには参加できません。日本ダービーなどの大きなレースは、地方競馬から上がって、公認競馬で何回か勝ってやっと出ることができるのです。
 転戦中は忙しいかというと、それほどでもありません。競馬は約一週間ありますが、それが終わって次の競馬までの間、1週間か10日くらいの間は暇になり、儲(もう)けたお金は次の競馬までに遊びで使ってしまう状態でした。良い言葉でいうと『宵越しのお金は持たない。』のですが、悪くいうと『使いほうける。』状態でした。大きなレースに勝つと、知り合いの馬主や騎手など70、80人呼んでホテルなどで宴会をします。獲得した賞金は大きいのですが、宴会費用が賞金だけでは足りず、持ち出しが多かったのです。この世界、獲得したお金は残りません。
 三津浜競馬場など田舎の競馬場では、農林水産大臣賞典レースのような大きなレースはありませんが、地方競馬でも良い馬がたくさん集まる大都市の競馬場では大きなレースが開催され、賞金も大きいのです。そういうところは、一般レースの賞金額も三津浜競馬場の倍以上あるため、良い馬が集まるのです。三津のような田舎の競馬場は良い馬が集まらないため、県が『引きつけ手当』という旅費をわざわざ出し、よそから良い馬を呼んでいました。松山市内で甲馬を所有する馬主は、私を含め2、3人しかいなかったのです。
 それと『抽選馬』といって、県が年に10頭くらいの馬を売り出すことがありました。売るのは甲馬から丙馬くらいの良い馬で、価格の1割くらいを県が負担するため買い手が多く、抽選になるのです。ただ買って5年とか7年とかの間は、地元の競馬に出場することが義務付けられました。もちろん地元で競馬がないときは他県の競馬に出ることは可能でした。愛媛県でも戦後2、3回抽選馬をやったことがあります。この制度も地元の競馬に良い馬を出して盛り上げようとする方策でした。
 当時賞金はいったん馬主に全部入り、うち2割が騎手にいきます。当時の馬券は全国共通で10円でした。賞金は一般レースで1着が2,000円くらい、甲馬の一番良いレースで5,000円くらいでした。優勝レースになると、甲馬で7,000円か8,000円になりました(レースは一般レースと優勝レース、特別レースの三つに分けられる。一つの競馬はだいたい6日間行われ、一般レースの間々に県知事杯などの特別レースが行われる。そして、これらに勝った馬が最終日の優勝レースに出ることができる。しかし賞金額が一番高いのは特別レースだった。)。馬券は、今はいろいろありますが、当時は単勝、複式、連勝の3種類だけでした(1位の馬を当てるのが単勝、3位以内に入る馬を1頭だけ当てるのが複式、1・2位の馬を着順通り当てるのが連勝)。
 5年間ぐらいは馬主として、世話をしながら全国をまわりましたが、25歳で結婚して馬の世話はやめました。父が私の体のことを心配したのです。馬の世話をするということは、落馬事故など危険が伴います。私もあばら骨や鎖骨など何か所も骨折しました。全国をまわっていた時、父が心配して、『体を壊したらいけない。嫁をもらってやるから、早く帰れ。』というので三津に帰ったのです。三津に帰ってからは、父とともに農業をしました。それでもしばらく馬は持っていましたが、調教師に預けていました。勝てるレースがあれば連絡があり、見にも行きました。馬は最も多い時で4頭所有していました。全部手放したのは20年ほど前です。」

 エ レースに臨む

 「公認の競馬場は芝生が多いのですが、芝生のところも馬の足に負担がかからないように、芝生の40~50cm下に厚手のコルク板を敷いています。馬の足は、人間でいうすねの部分を『ソエ』、ふくらはぎの部分を『エビ』と言いますが、下が固かったら『エビ』を傷めます。ここを傷めたら治るまでに一月も二月もかかります。ですからクッションとしてコルク板を敷いているのです。三津浜競馬場は海岸の砂を入れており、足には比較的負担のかからない砂馬場でした。高知の競馬場は馬場が硬く、早く走れるので良いタイムがでますが、砂馬場の三津に来るとスピードが出ないため勝てません。馬場の状態は、馬主も騎手も大変気をつかうのです。第4コーナーを回るときには、内枠に入れば馬場が柔らかくなっているのでスピードが出ない、外を回り込むと大回りになるが馬場が固いのでスピードが出るとか、いろいろ騎手も作戦を考えます。馬主も馬場をよく研究し、騎手にいろいろ注文を付けたりもしました。馬が強いだけでも、騎手がうまいだけでも勝てないのです。
 馬も馬場により得手、不得手があります。雨馬場に強い馬、芝に強い馬、砂に強い馬の3種類いました。これは馬の体型でおおよそ想像がつきます。馬の体型は産地により特徴があります。代表的な競走馬の産地は九州宮崎と北海道日高(ひだか)ですが、北海道の馬は固い芝などの馬場が得意で、九州の馬は雨馬場や砂馬場のような柔らかい馬場が得意です。というのは、足の爪の形が違うのです。九州産馬は爪が平たく足の裏の面積が広いのですが、北海道産は爪が小さいため、柔らかい馬場に弱いのです。
 雨の日に勝とうと思ったら、端切って先頭に立つようにします。雨の日に後ろになったら、前を走る馬が跳ね上げた泥で後ろの馬は泥だらけになり、走る気を無くす馬もいるのです。馬場の状態、馬の特性、性格を見極めた上で、レースの作戦を立てることが大事なのです。私の『第一アポロ』は芝生が得意でした。ただこの馬は第1コーナー、第2コーナーでは先頭に立つ作戦は組めません。先頭に立ったらスピードを緩める癖があったのです。馬が力を抜いたかどうかは、耳を見れば分かります。馬が全力で走っているときは、耳を寝かせていますが、力を抜いたら耳を立てたり動かしたりし始めるのです。そんな状態になると、周りがスパートを切ったときに遅れるのです。だから『第一アポロ』は第3、第4コーナーまでは力をセーブして走らせることが大事でした。馬は本当に難しいです。
 蹄(てい)鉄は、普通は平鉄(極軟鋼といわれる鉄)といって、足に無理がかからないようなものをはかせますが、勝負をかけるときは、人間でいうスパイクシューズのような軽いニューム鉄(アルミニウム合金)で溝を切っているものをはかせます。
 レースの日は、朝3時半か4時ころに起きて、1時間くらい曳(ひ)き運動(準備運動)をします。そして4時半ころ馬場に出ます。なぜそんなに早い時間に馬場に出るかというと、明るくなったら予想屋が見に来るからです。前日にレースの番組が出るのですが、本命や対抗などの印がついたら特にマークされ、調子を見に来るのです。レースの日は、6~8時間前に『追い切り』をかけ、全力で1,000m走らせます。『追い切り』とは、レース目前の調教でハードなトレーニングをすることをいいます。『追い切り』をかけるのは、急激に運動して心臓や血管を膨らませるためです。12時間ぐらいは膨らんでおり、レースのときに全力で走っても馬の体に負担がかかりにくいのです。疲労が残らない程度に『追い切り』をかけ、夕方のレース(甲馬のレースはだいたい午後3時か4時。12レースあったら10か11レースにメインのレースがあります。)に臨むのです。」

 オ 馬の健康管理

 「馬にも病気があります。通称『デンピン』といわれる伝染性貧血病です(『馬伝染性貧血』は、高熱と貧血を特徴とする致死的な伝染病)。厩舎のなかで1頭『デンピン』が出ると、全部の馬を検査し、その病気に感染していると屠殺(とさつ)場行きになります。何百万円もする馬でも屠殺されるのです。冬は馬の風邪にも注意しなければなりません。馬も人間と一緒で、風邪をひくと声がおかしくなり、咳(せき)や鼻水も出てレースに大きく影響します。冬の調教は、汗をかいたらすぐに『汗こぎ』といって、馬の汗をかきとって下に落としてやります。その後、お湯の入った『馬たらい』という楕円形のたらいに前後交互に足を入れ、ワラで湯をすくいあげて肩や腰にかけてやります。あとはきれいに乾かし、湯ざめしないように『馬服』を着せて胴を覆い、首から頭は覆面のようなものをかぶせます。そこまでしても風邪をひく馬はおります。風邪をひいたら当時はペニシリンを打ちました。ペニシリンは筋肉注射のため、打つときは馬が暴れないように鼻をロープでねじあげ、動けなくしておいて腰など筋肉の多いところに人間の十倍くらいの量を注射しました。
 レースの日は静脈注射もしました。200ccの注射器で疲労回復のビタミン剤や強心剤の『ビタカンファ』を打つのです。これも馬を動けなくしておいて、馬の太い静脈に注射します。リンゲルという点滴(500cc。うち100ccくらいはビタミン剤を入れる。)をしたりもします。このとき間違って空気を入れてしまうことがありましたが、静脈に空気が少しでも入るとあの大きな馬でもひっくり返ります。そうなったらすぐに獣医を呼ばないといけません。これで死ぬ馬もいるのです。
 また、馬も脚の『エビ』の部分を傷めたり、肉離れを起こすことがあります。エビを傷めるとハンダゴテで足に『やいと』(灸(きゅう))をすえて治療します。足に沿ってだいたい2cm間隔で合計100か所くらい灸をすえ、その後ヨードチンキを塗るのです。肉離れは肩と腰でよくやるのですが、起こした箇所に針(笹針)を何本も刺し、空気と血を抜いて引っ付けて固定し、1週間くらい安静にします。肉離れは競走馬ではけっこうあるのです。馬の健康管理には本当に気を遣いました。」

 カ 馬との別れ

 「馬は7歳まで使うとよく使ったほうで、6歳くらいで引退でしょうか。5歳が働き盛りです。私が今まで所有した馬は14、15頭です。引退した後の馬は、人に分けてくれと言われれば売ります。最初の『第一アポロ』は足を骨折したため屠殺しました。京都競馬場でのレース中に、最後のコーナーで追い込みをかけた時、『パーン』という音が聞こえて失速し、そのままなんとかゴールしましたが、馬の足をみると第1関節が砕けていました。原因は蹄鉄でした。蹄鉄はくぎ4本でとめていましたが、4本のうち3本のくぎが切れ、走っている間に蹄鉄がはずれかかり足を骨折したのでした。蹄鉄にくぎ穴はもっとありますが、くぎ一本でも軽くするため、大体4本でとめるのです。骨折しても人間であればギプスで固定して回復を待ちますが、馬の場合はそういうわけにはいきません。廃馬となり屠殺場行きです。そうなると100万円の馬でも馬肉をとって5、6万円にしかなりません。牛より肉の値段は劣るのです。『第一アポロ』は京都の屠殺場に行きました。一般の馬は、引退したら出身地の牧場に引き取ってもらいます。メスは袋馬、オスは種馬になりますが、戦績により値段が違います。『第一アポロ』は種馬にもなれる良い馬でしたが、けがをしたため殺すより道はなかったのです。」