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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)街のよろず屋として

 ア ところせましと商品を並べていた

 「今、うちの店はアイスキャンディーの老舗と言われていますが、元はそうではなかったのです。日用品はもちろん文具、衣類、履物、帽子から正月用品、節句用品、お盆用品、お祭り用品に至るまでいろいろなものを扱う店でした。平成に入ったころから近郊に量販店ができて売り上げが減ってきたことと、衣類や履物の卸屋もだんだん少なくなってきたのでやめてしまったのですが、平成10年(1998年)くらいまでは扱っていました。
 景気が良かったのは昭和30年代から40年代です。昭和30年代初めまでは、3人ぐらい住み込みで働く女性がいました。中学校を卒業した16歳から20歳ぐらいの人でした。衣類、履物、文房具、帽子などがよく売れていました。うちの店は隣接して2軒ありました。1軒は明治40年ころ、もう1軒は大正末に建てられたものです。平成12年に改装して店を1つにしましたが、大正末に建てた店の2階の座敷の部分はそのまま残しています。2軒とも昔の軒(のき)の低い建物でしたが、店の中にはかばんや帽子、学校の制服やランドセル、それから運動靴や長靴などいろいろなものを所狭しと並べていました。昭和40年代には靴が1日に何十足も売れており、母が問屋へ毎日電話で注文をしていました。川内の山間部で林業が盛んな時代であったので、山仕事に従事する人が毎日のように店に寄って買って帰るのです。長靴や地下足袋はもちろん、木に登ったり木の下草を刈ったりするので、脚絆(きゃはん)や軍手、軍足も売れていました。私(**さん)がお店を手伝うようになった時、軍手は知っていたのですが軍足を知らなくて、お客さんに『軍足を下さい。』と言われ『ありません。』と言ったところ、母に『そこにあるがな。』と言われました。麦わら帽子やそれにかぶせるナイロン、そしてカッパもよく出ました。田植えの時期になると、店中に田植え足袋や長靴、手甲(てっこう)、脚絆など田植えに必要な品物をずらっと並べていました。」

 イ 節句用品も扱う

 「昭和30年代から40年代にかけてお雛さんは、ものすごく売れていました。古い店に仕入れたお雛さんを全て並べていましたが、全部売れていました。お雛さんの時期が終わって片付けていると、前のおばあさんに『姉さん。全部売れたね。』と言われたことを覚えています。段飾りなどもありましたが、うちでは親戚の方が初節句のお祝いとしてあげる市松人形や天神さん、ケースに入った人形で『汐汲(しおく)み』『道成寺(どうじょうじ)』『藤娘(ふじむすめ)』などが良く売れていました。お雛さんでは御殿にお内裏(だいり)さんとお姫さんが入っているものなどがよく売れました。五月人形や鯉(こい)のぼりも売っていました。川中島の合戦などを描いたのぼり旗のまち(木やロープを通す部分)をよく母が縫っていました。建前(棟上)の時に使う扇子や幣串(へいぐし)(御幣などをはさんだ木)、五色の布などの道具、お彼岸・お盆に仏さんに備えるシキビも売っていました。川内からトラックで運ばれてきた何百kgものシキビを裏の川につけておき、それを父が大、小に束ねて店の前に並べて売っていました。平成6年(1994年)に渇水がありましたが、それまでは売っていました。」

 ウ 季節や行事に合せて商品を入れ替える 

 「昭和30~40年代には、デパートが季節ごとに商品の入れ替えをするように、季節や行事に合わせて商品の入れ替えをしていました。正月には正月飾り、凧(たこ)、コマ、カルタ、トランプ、双六(すごろく)、昭和30年代初めころまでなら羽子板、羽根、干し数の子まで売っていました。凧は何百枚と売れていました。2月・3月は雛人形。3月・4月は文房具や学用品、小学校、中学校の学生服の取扱店になっていたので、制服もたくさん売れていました。4月・5月が五月人形や鯉のぼり、5月・6月は田植え用品、7月・8月はアイスキャンディーがよく売れました。9月・10月はお祭り用品、小学校に上がる前の子どもが2人で担ぐおもちゃのお神輿なんかも置いていてよく売れていました。11月ころになるとお店の中に物干しを作り、竿(さお)に毛布をかけて売っていました。毛糸や赤ちゃん用のセーターなどを編むセットもありました。昔は、子どものセーターなどもお母さんが自分で編んで作っていました。それで赤ちゃんができるとお祝いに毛糸の編み物セットをよくあげていたのです。12月には正月用品を並べます。1年を通していろいろと売るものがあり忙しかったのです。」

 エ 文具店と言ってもよいぐらい

 「昭和40年代以降は文房具が飛ぶように売れました。門田文具店というような感じであったと思います。昭和40~60年ぐらいまでは、小学校の入学式の帰りに新入生の手を引いた黒い羽織を着たお母さんで店があふれていました。今は残念ですがほとんど来ません。朝は学校へ行く子どもが文房具を買いに来るので、6時半過ぎにはお店を開けました。登校前に小学生が鉛筆や消しゴム、ノート、絵具を買いに来るので、朝から一仕事ありました。お母さんから電話がかかってきて『子どもが行くから、何々を渡してやって。お金は後で持って行くから。』と頼まれることも頻繁にありました。小学校でお絵かき大会などがあると、絵具、筆、パレット、画板はもちろん、当時は体操服を着ていたので体操服まで売れていました。学校で何か大きな行事があると、こっちがしんどくなるくらい売れていたのです。
 文房具の卸屋さんも、当時は何軒も来ていました。今はほとんどやめてしまって来るのは松山の明文堂さん1軒になりました。明文堂さんとは終戦後からの付き合いです。最初のころは、自転車に大きな荷物を積んで舗装のされていない砂利道を播磨塚(はりまづか)の坂を越えて来るので大変だったと思います。2日に1回ぐらいは来ていました。母に連れられて文具の見本市に行って箱ごと買って帰ったこともありました。お正月に初荷が届いたら、鉛筆やノートが入ったダンボールで店の中が山のようになっていたのです。」