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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)井華鉱業株式会社へ入社、鉄道課へ

 ア 庫内夫から機関助士へ

 「もともと鉄道学校へは国鉄へ入りたくて行ったのですが、当時は国鉄も戦後の混乱で人員整理をしている時代であったので、なかなか入ることができませんでした。それで、しばらくは大三島へ帰って生口島(いくちじま)の造船所へ行ったり、家で農業の手伝いをしたりしていました。そうしているうちに、鉱山(当時は井華(せいか)鉱業株式会社、現住友金属鉱山株式会社)の青年学校の教員をしているおじから『新居浜に小さな鉄道があるが来ないか。』と言われて入社試験を受けることになりました。昭和21年(1946年)10月に惣開(そうびらき)の本社で試験を受けました。中途採用であったこととおじの紹介で来ているので、学科試験はなく面接試験だけでした。そして採用になり、その年の10月末に井華鉱業株式会社別子事業所に入社し、鉄道課へ配属されました。入社した当時は鉄道課で600人ぐらいの職員がいました。事務関係、駅務関係、車掌などの乗務関係、整備士などの整備関係、線路などを点検整備する保線関係と私たち運転関係と、部署もたくさんあってにぎやかでした。星越(ほしごえ)駅から300mぐらいのところに神幹(しんかん)寮という寮があってそこに住んでいました。そこは鉄道課の独身寮で、20~30人が住んでいました。最初は、庫内夫(こないふ)の仕事から始まりました。庫内夫というのは機関庫のなかで入庫してくる機関車の煙管のすす清掃、釜の湯あかの除去、機関車の清掃、足回りへの給油、点検や整備の仕事をする人をいいます。夜勤もありました。蒸気機関車の時代だったので、次の日の朝一番で出庫する機関車は火を消すことができないため、一晩中火が消えないか、蒸気の圧力は適正かどうかを確認しながら保温状態にしておくのです。朝になると異常がないように点検をして機関士に引継ぎをします。別子鉱山鉄道の機関庫は星越にありました。約2年間、庫内夫の仕事をして、その後試験を受けて機関助士になりました。試験は機関車の構造や運転に対する知識、それから『鉄道規程』というものがあり、それらを勉強して試験を受けて合格すると機関助士になれました。」

 イ 石炭の質が悪く発車が遅れる

 「機関助士は、発車の1時間前には出勤して機関庫へ行き、検査係から自分が乗車する機関車を受け取って点検確認をし、蒸気を上げていつでも発車できるようにします。発車すると、機関士が運転しているすぐ左後ろで投炭作業や圧力の確認、給水作業を繰り返し、機関士が安心して運転できるように蒸気圧を適正な状態に保ちます。難しいのは投炭作業です。終戦直後のモノがない時代であり、石炭の質が悪くて苦労しました。
 住友の蒸気機関車の場合は、火床が1m四角ぐらいの大きさで、その中に石炭を入れて燃やして蒸気圧を上げていきます。投炭作業は鉄道学校の実習でもやっていましたが、スコップですくってただ単にポンポン放り込むだけではいけないのです。石炭を入れる量が多すぎても少なすぎてもいけません。まんべんなく入れるのがコツで、1杯目は真ん中へ、2杯目は手前へ、3杯目は奥へ、4杯目はその上へ、5杯目は真ん中にパラリと巻くというように投炭していました。煙の色と圧力計を見ながら自分の経験と勘でやっていきます。石炭の質が良かったらよく燃えて燃えカスが火床から下に落ちていくのですが、質が悪いと燃えにくく、燃えカスが下に落ちないで飴(あめ)のようになって固まってしまうのです。そうなると蒸気圧が上がりにくくなり、発車時間が来ても予定通り発車できなくなります。通常石炭のカロリーが7,000カロリー以上あれば、燃やしても燃えカスが灰になってすぐ下に落ちます。それが5,000カロリー以下だと燃やしても燃えカスが下に落ちないで飴のように固まってしまうのです。そうなるとそれを除去して、釜換え(新しい石炭を入れて燃やす)をしなければならないのです。下手をすると火を消す恐れがあるのです。飴のように固まった燃えカスを落としている間に火が消えそうになって、あわてて新しい石炭を入れることもありました。質の悪い石炭には本当に苦労しました。
 当然、走りにも影響がでます。質の良い石炭はどんどん蒸気圧が上がってくるので順調に走るのですが、質の悪い石炭では蒸気圧が下がって登り坂で止まることもありました。止まるとそこで蒸気圧を上げなおしていました。下りは惰性で何とかなるのですが、上りは本当に大変でした。星越から端出場まで貨車を引いて行くのですが、発車するとだんだん蒸気圧が下がってくるのです。山根(やまね)までは何とか走るのですが、山根で停車すると次に出発する時に、どんなにしても蒸気圧が上がらなくて、機関士に『もう少し待ってください。今、蒸気圧を上げていますから。』と言って待ってもらい、15分も20分も発車時間が遅れることも多々ありました。何とか発車できても、山根駅を過ぎると断崖絶壁のカーブの多い急勾配なので、今にも止まりそうな状態で大変でした。私が入社したころから昭和25年(1950年)に電化されるまでそのような状態が続きました。」