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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇『弓削民俗誌』のできるまで

 では、わたしたちのグループが『弓削民俗誌』の刊行に至った経緯につきましてお話しします。発端は、弓削町独特の方言、いわゆる「弓削弁」をまとめてみようということでした。「この程度のことだったら簡単かな。」と思っていたのですが、弓削弁をまとめるとともに、現在では無くなってしまった小字(こあざ)名も調査してはどうだろうかという話が持ち上がり、結局、弓削のかつてのくらしぶり全般にわたって調査を行い、それを『民俗誌』という形で記録にとどめようということになりました。
 しかし、民俗調査と言われてもわたしたちは素人の集まりですから、どのような調査をすればいいのか、またそれをどのようにまとめればいいのか、皆目見当がつきませんでしたが、指導してくださる方が、文化庁発行の『民俗資料事典』を基本文献として使用したいと言ってこられました。そこで、その事典に挙げられている項目に沿って、調査担当者を決め調査が開始されたのですが、わたしたちは、そういう事典を見た経験がほとんどありませんでしたので、その項目の多さにびっくりしたものです。
 調査は平成8年3月から始まり、その方法は、先ほどの赤坂憲雄先生の基調講演にも出てきました「聞き取り」が中心となりました。町を12地区に割り、65歳以上の方々に地区の集会所にお集まりいただいて、そこで話をうかがいました。この聞き取り調査は、約1年間続けられました。当初は、聞く内容をはっきりと把握しないままうかがうという状況でしたので、これも先ほど赤坂先生がお話しされたように、その方の人生そのものを聞いていきました。すると、調査が不十分な項目がどうしても出てきます。その場合には、自宅までお邪魔をしたり、あるいは、その項目についてより詳しい方を探しては、聞き取りを行いました。一人の方に何人も調査にうかがうと「もう、うちへは来んといてくれ(来ないでほしい)。もう、わしは言うことはない。」と言われることもありました。しかし、多くの場合は、「思い出したよ。」とか、「自分よりもあの人の方がよく知っているから、いってらっしゃい。」とか言ってくださったり、あるいは「自分の家の蔵を壊したところ、古い道具がいろいろと出てきたのだが必要ではありませんか。」と声を掛けていただいたりなど、とても親切にしていただきました。
 聞き取り調査で最も印象に残ったことは、話をうかがっている時のお年寄りの方々のうれしそうな、あるいは楽しそうなお顔です。今まで話をしたかったのだけれども、だれも聞いてくれないから黙っていた。それが、やっと聞いてくれる人がいたという感じで、とても喜んで自分の人生を語るのです。わたしが担当した方などは、退職するまでの話を延々と3時間ほど話されました。内容はとても興味深く、わたしは聞き入ってしまったのですが、聞いた後で、「結局、何を調査したのだろう。」と思い返し、もう一度話をうかがいに行ったこともあります。
 そして、話をうかがった皆さんは、昔のことを本当によく覚えていらっしゃるのです。年中行事や農作業などについて、こと細かく克明に覚えていらっしゃいます。生活の知恵の固まりのような話をどんどんと聞くことができて、こちらはメモを取る手が追い付かない状況でした。聞き手も次第に興味がわいてくるものですから、次から次へと聞いていきます。すると、お年寄りからは、今まで他人にはあまりしゃべったことのないような苦労話なども、どんどんとあふれ出るという感じで出てきます。
 わたしがこの聞き取り調査を行うなかで思いましたことは、かつてはどんな小さな集落においても、人々が安定して生活することができるための取り決めや相互扶助の精神が、集落の隅々にまで行き届いていたのだなということです。このことにつきまして、わたしが調査を担当した山の生業の例をひいてお話しします。昔はカマドのたき付けにマツの落ち葉を利用していました。しかし、集落の全戸が山にマツを所有していたわけではありません。おそらくそのような方々のためであったのだろうと思うのですが、月の何日かが、だれがどなたの山へ入ってマツの落ち葉を取ってもかまわないという日(山日)と決められていました。また、取ることのできる量や取って帰ってはいけない物も、集落全体の取り決めとしてきちんと定められていました。この1例からもうかがえるように、とにかく衣食住のすべてを非常に工夫し、実に効率良くくらしていたのです。それに比べて、現代のように本当に必要な量以上に物があふれている時代は、わたしにとっては実にぜいたくに思え、またそのような時代にリサイクルが叫ばれているのは、何かちぐはぐな気がいたします。
 また、グループのあるメンバーが言っていたのですが、自分が聞き取りをしたお年寄りが、次々と亡くなられてしまう。だから自分は調査をしないほうがいいのではないだろうかと悩んでいたとのことです。これは、別にそのメンバーのせいでも何でもなくて、かつてのくらしぶりを語っていただける方が、そうした御高齢になっているということなのです。
 以上、お話ししてきましたような聞き取り調査を、約300人の方々からお話をうかがうという形で終了しまして、2年目には原稿を書く作業が始まりました。しかし、これがまた大変な作業だったのです。
 指導者の方が、調査のまとめ方や報告書としての文章の書き方を教えてくださるのですが、いざ書こうとするとなかなか筆が進みません。聞き取ったままの言葉ではなくて調査者の言葉で書かないと意味が通りません。調査した本人が原稿を作るのですから、事前にいろいろとまとめたノートが何冊もあるので簡単にできそうなのですが、それがなかなか書けないのです。そして、いざ書き出しますと、調査が不十分なところが次から次へと出て来ました。そのような時には、家事の合間に、不十分な点について知っていそうなお年寄りを探しては聞き取り調査に行き、家事が終わった夜中に原稿をまとめるという作業が原稿締め切りの直前まで続きました。今まで原稿用紙とほとんど無縁の生活をしていた者がペンを持つということは、やはり本当に大変なことだったなと痛感しております。
 この2年間は、わたしたちの頭の中は民俗誌一色で、家族の者にはいろいろと迷惑を掛けたと思います。家族の、また夫たちの深く温かい理解があったからこそ、わたしたちの活動も順調に進んだのではないかと思います。なにはともあれ、このような経緯で『弓削民俗誌』は出来上がり、平成10年3月に刊行されました。出来上がった当初は。「もうこんな大変なことは二度としたくない。」とメンバーの多くが思ったと聞いています。そして、刊行されて1年以上経過した今も、自分が書いたところは怖くて読めないという人が何人もいます。実は、わたしもその一人です。他の人が担当した部分は読めるのですが、自分の担当箇所は、どうもまだ読めないという状態です。また、『弓削民俗誌』は町内全戸に配付されました。すると、しばらくの間は町内のあちらこちらで、記述の内容について「違っているのではないか。」「ああでもない。こうでもない。」とけんけんがくがくの状態で、調査にかかわったわたしたちは、道なんて歩けないのです。でも、こんなにたくさんの方々に興味関心を持って読んでいただけたのなら、わたしたちが行ったことは大成功かなとも思いました。そして、刊行から1年以上たったこの時期になりまして、感慨深いものがじわっとわいて来ているという感じです。