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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇「汝(なんじ)の立つ所を掘れ、其処(そこ)に泉あり」

 最後に、地域学について、少し抽象的な話をさせていただこうと思います。
 たびたび名前を出しますが、日本の民俗学を創(つく)ったのは柳田国男です。柳田は、民俗学とは「経世済民(けいせいさいみん)の学問である。」と言いました。この「経世済民」という言葉から、「世」と「民」を除けば「経済」となります。つまり、経済の間に世の中と民を挟み込んでいるのです。したがって経世済民とは、世の中のくらしやなりわいをきちんと立てて民を救済するという意味なのですが、柳田は民俗学を、この経世済民の学問として創ろうとした人でした。ですから生涯にわたって、農民はなぜ貧しいのかという問いを手放しませんでした。
 そして、柳田が民俗学についてどのように語っているのかと言いますと、「郷土研究」という言葉で表現しています。郷土を研究する。その目的の第一義は、簡単に言えば、平民の過去を知ることです。平民とは、柳田が用いた別の言葉で言い換えますと、「常民(じょうみん)」となります。常民とは、普通の農民、普通のくらしを営む人たちのことです。そうした人々の過去を知ることが、郷土研究の第一義だと言いました。わたしは、そういう言葉を背負った学問の末端に位置する者として、いわゆる偉人・賢人と称される人々を取り上げることで地域学が語られるのは、とても不幸なことではないかと思うのです。そうではなくて、例えばある人が、自分の家の庭先に果樹を植えてそれを大事に育て、やがて果物王国となるまでの過程や、さらにその過程において、例えば品種の改良などに、どのような人たちがいかなるかかわり方をしたのか。わたしは、そういうことを知りたいと思うのです。そして、そうした普通の人たちの営みを浮き彫りにしていくことこそ、その地域に生きる、その地域にくらす人々の将来を支えることにつながるのではないかと考えます。
 その土地にくらす一人一人が、その土地で自分はどうやって生きていくのかを考える。すなわち、一人一人がその土地の歴史を学びながら、自分たちのくらしやなりわいの将来像をきちんと思い描いていくような方向に動き出さなければ、何も始まらないのではないかという気がします。だれかが何かを言ってくれるのを、だれかが助けてくれるのをいつも待っている。それでは、なかなか事は動かないのではないでしょうか。
 わたしの好きな言葉の一つに、「汝の立つ所を掘れ、其処に泉あり」があります。いい言葉だなあと思うのですが、皆さんはいかがですか。これは、沖縄において「沖縄学」を創った伊波普猷(いはふゆう)が座右の銘とした言葉です。自分の足元にこそ、すばらしい文化の源泉があるのだという意味ですが、わたしは、地域学を支える思想とは、結局これに尽きるのかも知れないと思います。それぞれの土地で、そこに生きる人たちが、自らのくらしやなりわいの足元を掘る。すると、さまざまなすばらしいものが、泉のごとくとめどもなくわき出してくる。それを支えとして、その土地の新しい歴史が創られていく。こういうことだろうと思うのです。
 また、柳田国男は、郷土研究について幾つかの大切なことを言っています。その一つが、郷土研究とは、「郷土人自身の自己内部の省察である。」つまり、内省のための学問であるということです。その土地に生まれ育った人たちが、それぞれの人生について、生活について、郷土について思いを巡らし、その過去・現在・未来を考える学問が郷土研究なのです。ですから、郷土研究は郷土に生きる人々が、自らの内部に向けて「自分とは何か。」と問い掛け、内省するところから出発するのです。
 もう一つ、柳田国男が語った大切なことは、郷土研究が、郷土「を」研究するのではなくて、郷土「で」研究することだということです。郷土研究の出発点が郷土「を」研究することであるのは間違いではありません。しかし、それが単なるお国自慢に終わったのではいけない。つまり、郷土「を」知ることは自分の文化に誇りを持つことですが、同時に、隣の村や町や県にくらしている人たちにも、自分と同じように自らの土地に誇りを持つことを認める。郷土「を」研究することが、こういう方向に開いて行くのでなければならない。すなわち、郷土「を」学ぶことがお国自慢の道具になってしまうのではなく、郷土からもっと広い世界に向けて、郷土「で」研究することへと豊かに開かれるものでなければ、それは本当の意味での郷土研究とは言えないと柳田は語りかけたのです。
 わたしは、これはとても大切な呼び掛けのような気がします。つまり、愛媛を知ることは、西日本を知ることであり、日本を知ることであり、さらにアジアを知ることである。愛媛学はそういう広がりの中で育っていく必要があり、またそうでないと、単なる愛媛自慢に終わってしまいます。
 柳田国男が教えてくれたのは、郷土研究というのは、郷土にくらす人たちが、自分の内面と自分が生きる土地を見つめることである、と同時に、それは郷土を知りながら、それを起点として、広い世間に向けて開かれて行くような学びであるということです。このことは、愛媛学に限らずあらゆる地域学が育っていくための大切な条件ではないかという気がします。
 わたしの東北での体験を踏まえながら、愛媛学に対してエールを送るつもりで話をさせていただきました。どうもありがとうございました。