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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇御荘(みしょう)の三歌人

 城辺町における短歌の流れは江戸時代にまでさかのぼり、「御荘の三歌人」と呼ばれる人たちによって始められました。「御荘」と聞くと、お隣の南宇和郡御荘町のことと思われるかも知れませんが、3人ともここ城辺町の方です。
 三歌人の一人である岡原常島(以下、登場する人名については敬称略)は、享和2年(1802年)に生まれ、嘉永4年(1851年)に亡くなった人で、町内の諏訪神社をはじめ、町内外の約50の神社の神主を勤めた人です。たくさんの歌を残していますが、1首を挙げてみます。

   文見ればとにもかくにも古へに及ばぬ末の世にこそありけれ

 この歌にいう「文」とは、「字で書いたもの」というくらいの意味です。近ごろの人が書いたものを見ると、昔の人のものにはとうていかなわない。もう、こがいに(このように)なったら世も末じゃ、と嘆いています。ひょっとしたら、現代にもこの歌が当てはまるかも知れません。
 次に、三歌人のうちの二人目、二神永世についてですが、この方の家は代々雑貨屋を営み、屋号を「堀舎(ほりや)」と言いました。ちなみに、現在の家業は本屋となっています。永世は、寛政2年(1790年)に生まれ、嘉永7年(1854年)に亡くなりました。先ほどの岡原常島とは家が隣同士で、行き来をしていました。二神永世は、岡原常島が病気になったときに諏訪神社に病気全快の祈願をして、

   人皆のかかるねぎごと明かにききゆるしませ諏訪の大神

と詠んでいます。「ねぎごと」とは「お願いごと」、「ゆるしませ」とは「受け入れてください」という意味です。
 三歌人の三人目は、小幡如水です。旧東外海(ひがしそとうみ)村の大庄屋で、前の二人より少し若く、文化8年(1811年)に生まれ、明治24年(1891年)に亡くなりました。1首を挙げてみます。

   消えさらぬ田の面(も)の霜の白妙(しろたえ)を雪見ぬ浦の人に見せばや

 在郷の田んぼに降りている雪のような霜を、雪を見ることのない海辺の人に見せたいと詠んでいます。端正な歌です。