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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇野辺に咲く一輪の花に

石森
 このお坊さんは、太平洋戦争が始まる前に東京で生まれました。父親はアメリカ人の外交官で、駐日大使館に勤めておりました。このアメリカ人外交官は、日本人女性と結婚しました。いわゆる国際結婚であります。そして1年数か月後に、一人の男の子が生まれました。しかし、このすぐ後に、太平洋戦争がぼっ発しました。アメリカと日本は敵国同士になりましたので、父親である外交官は本国に戻ることとなり、母親と男の子もアメリカに渡りました。その後、すぐに悲劇が起こりました。それは、この外交官が事故で亡くなってしまったのです。後には、日本人の母親と男の子が残されました。当時のアメリカでは、日系人は全て敵性外国人とみなされ、カリフォルニア州やコロラド州の日系人収容所に入れられました。そして、この母子も例外ではありませんでした。
 戦争が終わり、母子は収容所を出ましたが、二人には全く身寄りがありません。そこで母親は、あまり英会話はできなかったのですが、一生懸命に働いてお金をため、日米の国交が回復したならば、一刻も早く日本に子供を連れて戻りたいと願っておりました。ところが、母親は、仕事に無理を重ねているうちに病気で倒れ、10歳足らずの我が子を残し他界しました。男の子は、天涯孤独の身になったわけです。
 この後、彼は孤児院に入れられました。そこでくらすなかで、彼は、自分はなぜこんな不幸な人生を送らなければいけないのかと考えるようになりました。そして10代の半ばになった時に、孤児院を出てサラリーマンとなり、小さなアパートに一人でくらし始めました。しかし、生きていくのがとても寂しい。そして、20代の半ばのある日、ひかれるままにカリフォルニア州にあった禅宗の道場の門をくぐりました。そこで座禅を組むことで、彼は心の安らぎを得ることができました。その後、仕事を終えては禅宗の道場に通い、さまざまな講話を英語で聞き、修行をしておりました。
 そして、30歳代の半ばになった時、一念発起をいたしまして、仕事を投げ捨て、母親の母国であります日本に渡り、福井県の永平(えいへい)寺に入って、本格的に禅僧としての修行を行いました。
 わたしは、今から約20年前に、ある新聞に写真入りで紹介されているこのお坊さんの記事を読みました。そこには、背の高い白人の男性が僧りょの衣装をまとい、素足に下駄(げた)を履いて托鉢(たくはつ)をしている姿が写っていました。記事の最後で、新聞記者がこのお坊さんに禅問答を仕掛けました。それはどういう問答かと言いますと、人間が生きているというのはどういうことでしょう、と問い掛けたのです。これに対してお坊さんは、次のように答えました。「それは人知れず野辺に咲く、名も知らぬ一輪の花に心を奪われる時に、人間は生きているのです。」
 この記事を読んだ時、わたしは30歳ちょっとの年齢だったのですが、非常にショックを受けました。それまでわたしは、野辺に咲く一輪の花に心を奪われることは全くありませんでした。とりあえず、自分の研究のことしか考えていなかった。より良い研究をして、より良い学者になる。ですからその時流に乗り遅れまいとして、一輪の花を踏みにじって行くことはあっても、ああここに一輪の花が咲いていると思う余裕は全くなかったのですね。それに対して、このお坊さんは、その時40歳を少し過ぎたくらいだったと思いますが、苦労の果てに、一輪の花の中に人間が生きている証(あかし)を見付けられたのです。
 もちろん、こうしたことは、禅僧だからこそとも言えますけれども、先ほどわたしが観光について御説明しました時の地域の光という考え方と同じなのではないかと思います。地域の光というのは、決して大仰なものではないのです。この砥部町に、一輪の花の中に命を見いだすことのできる人が何人おいでになるか。それが、砥部町のすばらしさが周囲に光輝くことができるかどうかの重要な点だと思うのです。
 国の光、地域の光を観(み)るということ、すなわち観光という言葉の本当の意味を御理解いただければということで、ひとまず、わたしの話を終わらせていただきます。