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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇揚浜式塩田による製塩

 今までの話の中で、揚浜式塩田、入浜式塩田という言葉が盛んに登場しました。そこで、次にそれらにつきまして説明いたします。
 入浜式塩田の特徴は、潮が満ちた時に水門を開くと、海水が自然に塩田の中に入り込むようになっていることです。これに対しまして、揚浜式塩田は、潮線より上に造られていますので、満潮になっても海水は勝手には入って来ません。ですから、海水を塩田の上手まで桶(おけ)を使ってエッサエッサと運ばなければなりません。この揚浜式塩田の堤防は、普通の田んぼのものよりも非常に頑丈にできております。しかも、少し深めに掘り込んでいます。それは、塩を作りますので、塩水が染み出して周りの田んぼや畑に塩害が及ばないようにという配慮があったからではないかと思います。そして、塩田の浜床(はまとこ)(床面のこと)は土が柔らかくてはいけませんので、非常に固くたたき締めております。
 今年(平成11年)の5月に、長井先生にお願いしまして、伯方町内の小田浜(おだはま)の揚浜式塩田跡を試掘していただきました。愛媛県で浜床が実際に調査されたのは、これが初めてだろうと思います。それを見ますと、浜床は2層になっていまして、下層は赤土をどんどんたたき締めているようです。そして、上層は赤土をざるでこして粒の小さい土とし、それに灰を混ぜています。ですから、色は真っ黒です。その土を使って、どんどんとたたき締めています。このようにして土を固めておりますので、まるでコンクリートのように固いのです。浜床は、海岸に向けて少し傾斜しています。そして一番低い部分、すなわち最も海岸寄りのところが、溝になっています。おそらく、そうすることによって、濃い塩水がそこにたまるようにしたのでしょう。
 海水から塩を作るには、二つの段階を踏みます。まず、とにかく濃い塩水を集める。この塩水を「かん水」と言います。そして集めたかん水を煮詰めて塩を取り出すことを「煎熬(せんごう)」と言います。具体的には、日照と塩水の散布によって塩田の溝に濃い塩水をため、それを塩屋という小屋に持って行き、釜(かま)で煮詰めて塩を取り出しました。
 このことから考えますと、塩作りには三つの大事な条件があるように思います。まず一つは、日照りが続けば続くほどいいということです。そうすると、塩がたくさん取れる。途中で雨が降ると、せっかく煮詰めて濃くなった塩水がだめになってしまいます。とにかく稲が枯れるほど照ったら、塩屋はよくもうかると言われていたようです。
 それから、二つ目に大事なことは、塩の結晶ができるためには、何か核になるものが必要です。雨粒ができる時には、水滴がくっつくことのできるほこりのようなものが必要なことと同じです。この核として浜床に砂をまき、その上から塩水を掛けていきました。そして濃い塩水を作って塩屋に持って行き、それを煎熬した。こういう仕方をしていました。
 では、こうした揚浜式塩田が伯方島のどこにあったのかと言いますと、まず木浦(きのうら)地区にありました。そこには、浜床という地名そのものが残っております。それから中西(なかにし)、沖浦(おきうら)、尾浦(おうら)、さらには古江(ふるえ)ですね。古江新田は、浜床の跡をつぶして新田を作ったのだと言われております。その他、有津(あろうず)地区にも浜床という地名がありまして、そこには揚浜式塩田があったようです。また、叶浦(かのうら)、伊方(いかた)、北浦の各地区にも、たくさんの揚浜式塩田があったはずなのですが、しかし、これらについては記録が残っておりませんので、詳しいことは分かりません。わたしの見たところでは、20以上はあったのではないかと思われます。そして、塩田の広さにしても、生産量にしても、いろいろ分からないことが一杯あるわけで、まだこれからの研究が必要な段階です。
 今日は、塩の本家本元のここ伯方町で、製塩の歴史や揚浜式塩田の実態の解明につながるであろうこうした会が催されましたことは、大変意義のあることだと思います。そして、これをきっかけに、伯方町やその他で塩の研究がますます盛んになることを期待して、わたしの話を終わらせていただきたいと思います。
 どうも御清聴ありがとうございました。