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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇古墳時代の芸予諸島

長井
 今、森先生がお出しになった課題のうち、古墳時代をどう考えるのかということにつきまして、少しお話をさせていただきます。
 「芸予諸島の古墳時代遺跡分布図」を御覧ください。すると、この地域については、二つの特色があると思います。それは、古墳が2種類あるということです。図中に黒丸印で示していますように、一つは横穴式石室を持った古墳です。おそらくこれは円墳だろうと思いますが、横穴式石室とは人間が入れるくらいの大きさで、複数の人間を追葬することのできる家族墓です。もう一つは箱形(はこがた)石棺(箱式石棺)、すなわち花崗(かこう)岩や緑泥片(りょくでいへん)岩などを材料とした箱形の棺で、基本的には個人用です。図中では黒四角で示しています。この二つが島に多い。そしておもしろいのは、見ていただいてお分かりのように、大三島(おおみしま)(越智郡上浦(かみうら)町・大三島町)から岡村(おかむら)島(越智郡関前(せきぜん)村)にかけてはすべて箱形石棺です。さらに、弓削島を見ていただきますと、南に久司(くし)山があります。その頂上からは南に広がる燧灘(ひうちなだ)が一望に見渡せ、はるかに石鎚(いしづち)山(西日本の最高峰で標高1,982m)も望めます。この眺望に恵まれた場所に古墳が五つあり、いずれも6世紀後半のものです。そしてわたしは、これらはおそらく製塩関係にかかわる古墳ではないだろうかと思います。「ないだろうか」と不確かな表現をいたしますのは、それらは盗掘をされていて、具体的な遺物が出ていないからです。しかし、盗掘をされていても、まだ地下に遺物が埋まっているかも知れませんが、まだ調査がされていません。もし、将来調査が行われ、内部から製塩土器が出てきたりすれば、これは塩を作る人々を統括していた人の古墳ではないか、ということも判明してくるわけです。図中の中で詳しく分かっております古墳は、伯方島の岩ヶ峯古墳だけです。先ほど、森先生からも紹介がありましたように、ここからは完全な形をした製塩土器が出ていて、これは全国でもまれなものです。そしてこの古墳は、今治市辺り、すなわち四国側にある古墳と横穴式石室という点では同じですが、内部が違います。石室の中に残る副葬品がまったく異なり、島独特のものです。すなわち、古墳の副葬品としての土器には2種類がありまして、それぞれを土師器(はじき)と須恵器(すえき)と言いますが、四国側の古墳から出てくる土器の約90%は須恵器です。これに対して、島の古墳では須恵器は約65%と下がり、逆に土師器が約35%を占めるようになります。この傾向は、伯方島の岩ヶ峯古墳についても同様です。
 それと、ここで一つだけ付け加えておきたいと思いますが、4世紀の前半という非常に早い段階に、すでに島には大きな古墳が存在したということです。大三島のほぼ東半分、すなわち上浦町側で多々羅(たたら)大橋の橋脚部分のすぐ北側にある多々羅(たたら)古墳がこれに当たります。この古墳からは鉄鋌(てってい)が出ています。鉄鋌とは、製鉄をする原料の鉄のことです。ここで、古墳に「多々羅」という名前が付いているのだから、鉄鋌が出るのは当たり前だと思われるかも知れません。「たたら(踏鞴)」とは足踏み式の大きな鞴(ふいご)、またはそれで空気を送り込んだ炉のことで、この炉に原料の砂鉄と木炭を交互に投げ入れ、燃焼させて鉄塊を作るのが日本独自の製鉄法です。したがって、地名などに「たたら」と出てくるとすぐに製鉄と結び付けがちなのですが、本来、この二つは関係のないものです。多々羅古墳からは、製鉄が行われた痕(こん)跡を示すものは出ていません。しかし、鉄鋌は出ている。この鉄鋌は、おそらく朝鮮半島から入ってきたものだろうと思いますが、こういう物も出てきているということを、覚えておいていただければと思います。ですから、古墳時代から、島は島としてかなりまとまりのある文化を持っていたのではないか。このようなことも次第に分かってきております。
 また、大島(おおしま)のほぼ西半分、すなわち越智郡吉海(よしうみ)町側で来島(くるしま)海峡第一大橋の橋脚に近い所に火内(ひない)遺跡があります。ここからは、縄文後期・晩期、弥生前期・中期、古墳時代のそれぞれの遺物や、さらには銅鏡や鉄鋌が出ています。まさに、先ほど森先生が言われたように「どうしてこんな所から出てくるのか不思議だ。」というような場所なのです。ですから、島というのは非常におもしろい。発掘が進めば進むほど、それまで分からなかったことが次々と分かってくるのです。