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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

□ふるさと再発見

越智
 「愛媛の技と匠」というテーマで、4人の方の研究発表、事例発表をいただき、また、岩井先生からは、非常に含蓄のある、示唆に富んだお話をいただきました。
 まず、西岡さんからは、砥部焼にたどりつくまでの御苦労や、ライフワークとしての淡黄磁についてのお話、さらにはこれからの砥部焼についてのあり方についての一つの提言がなされたかと思います。
 続いて、鳥井さんからは、桜井漆器会館建設の意義と、桜井漆器のあり方についての貴重な御意見が出され、その中で今後の方向性も示されたかと思います。
 また、越智さんからは、普段、見落としがちな鏝絵について、実際に自分が県下を歩かれて450点余りのものを全部実態調査をされたという、貴重な研究発表がありました。
 さらに、宮崎さんからは、染織との出会い、そしてその技術保存の実践に関する御発表をいただきました。
 それぞれのお立場から、伝統的な技術についてお話をいただいたわけですが、時間の都合もありますので、4名の方々の御発表の総括講評という形で、岩井先生にお話していただいて、この会を閉じさせてもらったらと思います。

岩井
 まず、私は、砥部焼のお話を拝聴しながら、それについて何も触れることができませんでしたので、くらわんか茶碗の話を、少しさせていただこうと思います。
 近世に川船が発達し、京都の伏見から大阪の八軒屋まで船が行き来するようになりました。それは30石船なのですが、半分は荷物を積んで、半分は人を積む船が行き来するわけです。森の石松が、次郎長の代参で金毘羅さんへ刀を納めに行く時に乗ったのが30石船で、「寿司食いねえ」と浪曲で出てくるのは、その場面です。
 その30石船から金毘羅船に乗り継ぐというのが、金毘羅詣の人々の足になったのですが、その船が通るときに、茶船という小さい船がそれに寄って来て、酒を売ったり、肴を売ったり、煮豆を売ったりしたのです。茶船からの「酒くらわんか、肴くらわんか」という掛け言葉に、「銭がのうて、ようくらわんか」というようなヤジが飛んだりしてにぎわったそうです。このときの勘定は茶碗の数でしましたので、客はごまかすために食べたらピョッと茶碗を淀川へ放り込むのです。この茶碗を、「くらわんか、くらわんか」と売ったところから、「くらわんか茶碗」と称して、それが淀川の底からたくさん出てくるのです。
 高槻(たかつき)市(大阪府)に古曾部(こそべ)焼というのがありますが、くらわんか茶碗として出てきたのは、多くがその古曾部焼でしたが、今日のお話のように、砥部焼も出てきますし、波佐見の焼物も出てくるといったように、今まで、あまり誰も注目していなかったのですが、今日はそういう話をしていただいて、有田焼や砥部焼が、いかに流通していたかということが証明されました。私も、その話を聞いて、くらわんか茶碗が、伊予の国からも来ていることを知り、感心いたしました。
 今日は、いろいろな専門のお話をいただきましたが、実は、文化というのは、こういうところから出てくるものだと思います。愛媛学の学なのですが、この学というのは難しく考えてはいけないので、いろいろな分野の方々が、それぞれの専門とするものや特技とするものや関心を持っているものに取り組まれた成果をそれぞれ出し合った時に、何か見えるのかというのが、学であろうと思います。したがって、学というのは、こうであるという完璧なものではなくて、仮説によって成立するのですから、いろんなお話や勉強された成果をトータルして、一つのカラーや癖が出ればいいわけで、これが学であろうと考えるのです。
 こうしてつくられてきたものを、それぞれに語り合って評価する場所がサロンであり、文化はサロンによって成り立つと思うのです。サロンというフランス語は、何人かが集まって雑談する場ということです。例えば、先程、生糸の話を出しましたが、日本の養蚕地帯というのは、福島、群馬から栃木、埼玉、八王子あたりまでずっとあるわけです。これを私はグリーンベルト地帯といっているのですが、ここの養蚕技術者たちは、養蚕技術を修得しに外に出るだけではなくて、いろんな文化に触れて、それを持って帰るわけです。そして、人々を集めて雑談をし、その中でその地域の文化が生み出されてきたのです。
 日本で和算を開拓した関孝和は、江戸時代にヨーロッパの微積以上の算術をつくったのですが、これはどうしてできたかというと、養蚕地域のグリーンベルトのサロンから出てきているのです。つまり、サロンで人が集まって、なんかかんか思っていることを言っていく中で、自然に見えてきたものなのです。そして、そういったサロンがそれぞれの地域の学をつくる根底にもなるのだろうと思います。だから、愛媛県においては、県生涯学習センターが、大きなサロンだと思いますし、陶芸館や漆器会館もまたサロンになるだろうと思います。そして、そこでいろんな製品を見せたり、人が集まってワイワイ言うことによって、何かを生み出していくのだと思います。
 愛媛県は、しまなみ海道の開通によって、観光客がますます増えると思うのですが、観光という言葉は、明治時代の初めにツーリズムという言葉の訳として使われて、ただよそへ行ってものを見るということになったのですが、本来は中国の『易経』に出てくる言葉で、「国の光を観る」ということなのです。つまり、よその土地を訪れて、そこの文化を見るというのが観光なのです。これを現代風にいうと、異文化接触です。異文化と接触して、異文化を体験して、異文化を理解して、異文化を摂取することなのです。だから、観光という言葉を高次元に展開していただいて、次元の高い観光を提唱していただきたいと思います。今まで使っている観光の概念というのは、明治の近代化によって、いささかいびつな言葉になってしまっているのです。
 今日よく言われる地域の再生というのは、現在つくりあげている文化要素を摘出し、その特性を明らかにすることによってできると思います。その地域文化を考えていくとき、私は県や市といった行政区画の領域ではなくて、文化領域を考えないといけないと思っています。今の県というのは、文化を分断してしまって、異なる文化の寄せ集まりになっているのですから、私は廃県置国ということを言うのです。昔の国郡制のほうが地域性が出てきているという点で、現代の県の枠にとらわれずに視野を広めて考えると面白いなと思っているのです。それとできるだけ、よその地域と、接触して交流を持つということです。
 そういうことを考えると、愛媛学もサロンとして、いろいろな方面のことを、たくさんやっていかれると、どこかでまとまり、トータルとして、一定の方向性と光が見えてくるのではないかと思います。

越智
 どうもありがとうございました。今日は、いろいろな分野の有意義なお話が聞けたかと思います。
 まだまだ私たちのふるさと、身の回りには、私たちが気がつかないものがたくさんありますので、今日のお話がふるさとをもう一度見直していくきっかけになればと思っております。