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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇民具の技と技術

 技と技術というものを、私は区別して考えております。と言いますのは、技術が進歩すると技が退化するという場合がありますので、技と技術と、一緒くたに考えてしまうと大変な間違いを犯すのではないかというふうに私は考えるからなのです。
 私は、曲物の研究もしたことがあります。なぜかと申しますと、実は日本人の生活道具の中で木器というのは、非常に大きな役割を果たしています。木器は、発生年代からいいますと5段階に分けられます。第1段階は、おのでくる「刳物(くりもの)」です。この上に漆が塗られたり、そのまま生地のまま使われたりして、古くは縄文時代から存在しております。第2段階は、「挽物(ひきもの)」で、轆轤(ろくろ)で挽(ひ)いたものです。轆轤で挽いて今の漆器の木地盆、木地椀というものになるのです。第3段階は、スギ、ヒノキの薄板を曲げて、それをサクラの皮でとじて、底板をつける「曲物」です。第4段階は、板を組んだ箱物の「指物(さしもの)」です。第5段階が、くれを並べて、たがで締める「結物(ゆいもの)」です。だいたい日本の木器というのは、そういうふうに発展してくるわけですが、各段階のものが消えていくのではなくて、ずっと継続して現代まで続いておりまして、その中で、一番多く使われてきたのが「曲物」です。
 この曲物の例をあげるときりがないのですが、例えば、子供が生まれるとへその緒を入れるのが曲物ですし、最後に死んで骨を納める時も曲物です。それから子供の揺り籠の大きいもので東北では「いずめ」といっているのも、後に藁(わら)を使いますけれども、初期のものは曲物を使っていました。とにかく、揺り籠から墓場まで曲物の御厄介になり、その間の生活用具の中にも曲物がたくさん登場します。
 水車も、実は曲物を使っているのです。例えば、桃山時代の著名な画家、長谷川等伯の子の宗也が描いた屏風絵(びょうぶえ)「柳橋水車図」に水車が描かれておりますが、これも水車の揚水部分は曲物でできています。また、我々が今も使っている三方(さんぽう)もそうですし、盆の原型もそうですし、お膳の原型も曲物なのです。
 東北地方へ行きますと、今も各地で曲物をつくっておりまして、一番北の津軽半島や下北半島でも盛んに曲物をつくっているのです。では、曲物が、なぜこのように長い間使われ、なぜ広範囲に使われてきたかといいますと、これは、鉈(なた)1丁でできるからなのです。つまり、木を切り、それを木目にそって鉈で割っていくと薄い板ができ、それを今度は鉈で表面のデコボコを削ると薄いものが出来上がり、これを曲げると曲物になるのです。そして、曲げる技術は何かといいますと、古くは「焼きだめ」の方法なのです。つまり、焚(た)き火で焼いて、柔らかくなったところを曲げるのです。
 この焼きだめの技術は、日本の和船の造船技術にも入り込んでくるのです。木造の和船の舳先(へさき)をつくるのには、板を曲げなければならなくて、このためには、焚き火で舷側の板を曲げて、ある程度曲がったところで水をかけて固める焼きだめの方法でつくり上げるのです。この技術は、近年まで残っていた「泉佐野の黒水押(くろみおせ)の技術」でもあったのです。
 曲物は、最後にとじるのは針一つなので、ほとんど全部鉈で済むのです。底はどうして入れるかというと、底板になる板の真ん中に釘をたてて、それに糸を結んで、曲物の大きさよりやや大きく円を描き、この板を鉈で削っていき、円形にするのです。それを、鉈の背中でその回りをたたいて押し込んでいくと、曲物の周囲が中へつぼむのです。そうしてつくったものを使いこなしていくと、周囲を押さえているものですから、ふくらむとピシッと詰まっていくのです。東北のほうでは、とにかく曲物に釘を使うというのは、名折れであり、鉈一丁でつくるのが技だと考えられています。
 しかし、のちになって、台鉋(だいかんな)など、精巧な道具を使うようになってくると、底もきちんとはめるようになり、今度は釘を打たないと抜けてしまうようになったのです。このように、道具と製作技術の発達が、逆に本来持っている勘とこつによる技を退化させていったという一面があるのです。
 船の舷側も、板をつぎ合わせてつくりますが、これはきれいに鉋をかけたらだめなのです。縦びきののこでひいて、ひげが出たままでないといけないのです。これはちょうど曲物の底を入れる技術と同じことで、ひげとひげとがあって、それがふくらんで、滅多に水が入らなくなるのです。だから、曲物一つを鉈一丁でつくる知恵が、あらゆるところへ波及していって、この日本の和船の技術の発達もうながしているということになるわけです。そういうことがいろいろ言えると思います。
 私の友人に粉体工学の先生で、粉づくりの工学博士がおりまして、彼は「近代の製粉機を使うといい粉ができない。我々は絶えずバックミラーを見て走らないといけない。」と言って、石臼(うす)に着目しているのです。昔は、小豆をひく石臼とか、お茶をひく石臼という具合に、材料によって石を選択し、また面の刻みも変えていましたので、各家庭に石臼がごろごろあったのです。そしてまた、その地域にいる石工さんがつくった石臼でひいた粉が、一番おいしかったのです。ところが、今の近代製粉機は全部画一ですからいい粉ができないので、その先生は、自分で石臼をつくって、これを今度は西洋式の製粉機の構造に組み込むというような研究をされています。この石臼をつくるということは、まさにたがねとつちだけの道具で、勘とこつだけでつくりあげる技ですが、近代製粉機という技術が、それをなくしてしまったわけですから、技を退化させたということになります。こういった例は、いくらでもあります。
 元禄のころに、唐箕(とうみ)と水車などの農具ができたのです。この唐箕や水車をつくる時に、大阪の農具商人は、木目をよく考えました。スギの木は中のほうは赤身で木目が細かく凝縮した所があり、外のほうは白身で柔らかい所なのです。それで、中の赤い部分を水車の部分に使い、外の白身で風を起こす唐箕をつくるというように、ちゃんと使い分けしたのです。技術が進んだ現代では、そういうことを考えずに、全部裁断して使うのですが、技でいくと、これはどう使うかという使い方まで考えた製作になるのです。