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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇民具研究の軌跡

 日本の民具の研究は、だれが始めたかといいますと、実は残念ながら外国人から始まったのです。それは、エドワード・モースというアメリカ人であります。この人は、元々アメリカ東海岸のセーラムという所で生まれ、生物学を専門として、貝の収集に当たっており、日本へは腕足(わんそく)類の貝を求めて、明治10年(1877年)を最初に3回来日しております。彼が、初めて日本に上陸して大森の所を通った時に、汽車の窓から貝が層をなしている大森貝塚を発見し、これが日本における貝塚研究の最初であるということで知られておりますが、そのほかにも、民具に大変関心を持っておりまして、日本に3回来たときの事柄を、『日本の住まい-内と外』という本に書いております。また、その後彼は、『日本その日その日』という旅行記も書いております。こうして、彼は生物学者から一転して民俗学者に変身をするのです。彼は『日本その日その日』の中で「近ごろ、私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片っ端から収集したいと思う。」というふうに書いております。ここで、彼が家内芸術と呼んだのは、家庭で使用する用具のことで、今日言いますところの台所道具です。そして、彼はアメリカへ帰りますと、すぐさま、「この家内芸術をもって、初めて日本及び日本人を知ることができるのだ。まず外国人が来て、日本人とは何だ、日本とは何かということを知るのには、まず日本人が日常使っている生活用具を知ることが大切だ。」というような報告をしております。その後も、彼は、家内芸術というものを台所の道具から全ての生活用具に展開して収集をし続けて、今もその資料は3万点のモースコレクションとして、アメリカのセーラムのピーボ博物館に全部そろっています。しかし実際は、3万点ではなくて、モース自身が集めたのは8,000点なのですが、そのモースの意気に感じた共鳴者がモースに日本の民具を提供したのです。これを見ると、明治時代の日本人の生活が一番よく分かります。
 日本人では、明治30年代に、横浜に成毛(なるも)金次郎という貿易商がおりました。この人が外国人と貿易をするために、外国人に日本を知らせなければならないが、どうして知らせようかと考えて、東京のある一般家庭の台所を克明に描いた『ドメスティック・ジャパン』という本を書いたのです。その中には、流しがあって、水甕(みずがめ)や醤油樽があってというぐあいに、そこにある道具を一つずつ全部そのままの状況で描き、1点1点引き出して解説を書いているのです。これはモースの発想と全く同じことであります。
 私も、近年大きく変わってきた日本の生活用具について調べたことがありました。昭和37年(1962年)を頂点とする高度経済成長の中で、とにかくプラスチックだとかステンレスが出て来る。この高度経済成長時代を、私はプラスチック文化、ステンレス文化、インスタント文化時代と称したのです。といいますのは、プレハブ住宅ができるのもこの時でありますし、百科事典がたくさん出始め、いっぺんに知識を得てしまうというのもこの時で、まさにインスタント的であり、これが高度経済成長の時代でありました。そして、実はこの時代に、日本の民具、在来の竹や木や木の繊維を使ってあったものが、全部なくなっていって、プラスチックに変わっていったのです。
 しかし、では、日本の民具はなくなったのかというと、それらのプラスチックの道具の中に、在来のものがそのまま入ってくるのです。例えば、弁当箱の一つに柳行李(こうり)という通風性があって、味が変わらないものがありました。かつては弁当箱というと「わっぱ」、「めっぱ」と呼ばれる曲物(まげもの)か、あるいは柳行李であったわけです。それを、プラスチックで柳行李の形にして、同じようなものをつくったのですが、柳行李と同じようにはいかずに、つゆがたまって飯はうまくないのです。
 いかに生活道具を近代化するといってプラスチックに変えていっても、在来の日本人の生活の知恵をプラスチック製品に取り入れただけなのです。例えば、今のボトルの醤油つぎも日本の縄文時代からある片口の原理であり、日本人が考えたアイデアとパターンをそのまま継承しただけで、しかもプラスチック製品は実際に使ってみると良くないということで、昭和50年代から元の道具が復活してくるのです。
 実は成毛金次郎の『ドメスティック・ジャパン』にあがっている民具が台所だけで70何種類あるのですが、私は東京におりました15年間で、それを東京と大阪のデパートを全部めぐって調べてみたところ、昭和50年代の後半から成毛金次郎の書いている70何種類のうちの50何種類かが復活していました。それぐらい、日本人が生活の中で技術的につくりだしてきた道具は極めて有効性が高く、かつ重要でありまして、いかに現代人でもそれを無視することはできずに、そこに回帰しているというのが、現代の状況であります。
 例えば、裏ごしというのがあります。裏ごしというのは、曲物に網を張っているのですが、この網は馬の尾の毛でできています。馬の尾の毛というのは、濡れるとややゆるみますが、乾くとピンと張るのです。そして、これは絶対にさびないのです。ところが馬の尾の毛の代わりに鉄製の網にしますと、濡れるとさびるし、ゆるむと元に戻りません。それで裏ごしが、再び「馬の尾」という名前で、馬の尾の毛でつくった網を張って出てきているのです。そして、現代の若い主婦たちも、これがいいなということで、使いだしています。
 今も、東京の銀座通りで曲げわっぱが売られておりますし、柳行李が売られているわけです。それくらい都市の人たちは、日本人のつくってきた文化を早く見直してきたのです。そういうことで、日本人を知るために、あるいは日本の文化を知るためには、日本の民具というものが大きな意味を持っているというのが、私の考えです。