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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇喜多郡の和紙づくりの歴史

 和紙というのは、非常に古い歴史を持っておりますので、まず、その歴史から簡単に説明をしておいたらと思います。こういった古い産業といいますと、世の常で、いろいろなふうにいわれておりますが、少なくとも平安朝時代から紙すきが行われていたようです。
 地元の歴史家である村上節太郎先生の本などを拝見しますと、喜多郡で和紙の生産が盛んになったのは、幾多の変遷を重ねまして、江戸時代に当地が大洲藩の知行地となり、和紙というものが専売制になってからのようです。当時の和紙の生産高は、大洲藩の知行高の約8割を占めていたとされていますので、今で言いますと、地元町村の税収入の8割が和紙から上がる資金であったということになるかと思います。
 このように、平安時代から始まりました和紙産業ですけれども、江戸時代になりまして、まさに一大産業になり、その後、明治、大正、昭和初期と、まさに当地の基幹産業としての役割を果たし続けてきたようです。
 村上先生の本によりますと、明治時代以降で多い時期には、地元で約500人近い方が紙すきに携わっていたと書かれております。ということは、家庭の方を含めましたら、およそ2倍の1,000人近い方が、なんらかの形で手すき和紙に携わっていたと思います。
 私が若い時には、ほとんどの家庭が、製紙工場から原料を預かってきて、地元の小田川の支流に持って行って原料を柔らかくして、家に持って帰り、簡単な道具で皮をはいで、製紙工場へ持って行って加工賃をいただいたことがあったと思います。
 小田川の支流の小さい小川のほとりなどでも、当時は大変多くの方が、そういった作業をされておりました。今で言えば、縫製業の内職のような仕事だったかもしれませんが、製紙業、特に手すき和紙づくりというのは、つい最近まで、地元にとりましては、なくてはならない産業であり、雇用と経済的な面の両方で、地元に大変貢献をしていたと思います。