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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇桜花塾の取り組み

 桜花塾の始まりは、そもそも10年前の平成元年に、今は故人となられました教員の八木治さんの「川内のことをちょっと考えてみよじゃないか。」という呼びかけに、10名ほどが集まりまして始まりました。毎月1回ぐらい集まりながら、いろいろな話をしていたのです。私は、八木さん(ニックネームはおおちゃん)に、「我々の若者塾の目的は、何だろうか。」ということを、お尋ねしましたら、「将来の川内を担う人材の育成だ。」という返事をいただきました。私たちは、「これはえらい大それたことで、これにお応えできないかもしれない。しかし、川内を担うとまではいかなくても、川内のことを考えることぐらいはできるだろう。」ということで、かなり白熱した話し合いを持ちながら、今まで塾を進めて参りました。
 ところが平成4年になって、どうも塾生の顔ぶれを見たところ私などが若手のほうでして、「これは若者塾とは言えないだろう。」ということになりました。そこで川内町の誇るべき木であり、町樹でありますサクラの木にちなんで「桜花塾」と名付けまして、今までに至ったわけなのです。
 この塾は、とにかく人材育成ということを基本的な方針として始まりましたが、ただそれだけでは話も尽きます。一つのテーマに絞っても話が尽きるし、逆にテーマを決めなければ今度は話がバラバラになってやかましいだけというような会でした。そこで、「とにかく、ここらで今まで話し合った成果を形に出して、何かをしてみよう。」ということになりました。
 まず最初に手掛けたのは、過疎が心配されておりました滑川地区の活性化を狙って、何かをやってみようということでした。そこで、この地が昔から鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)の終焉(しゅうえん)の地といわれていましたので、それにちなんで「ためとも祭り」というのを始めたのです。この為朝という方は、源頼朝や義経のおじさんになり、その終焉の地と言われる場所は、実際には全国で一杯あるのです。しかし、「そんなことはどうでもいい、とにかくやれ。」というぐらいで、平成4年から始めて現在に至るまで、毎年やっています。
 その「ためとも祭り」が、我々が初めて手掛けたイベントなのですが、桜花塾の方針としては、当初、イベントを追い掛けるのはやめようと決めていました。なぜかといいますと、イベントを追い掛けて成果を上げることは簡単であるし、それはどこでもやっているからです。だから桜花塾は、もっと何かないかということで、いつも悩み続けているのです。私は、個人的には「カッパを探そう。」ということを桜花塾の狙いというか、目的にしたらいいと考えています。どういうことかといいますと、桜花塾の活動の内容をハード事業とソフト事業というふうに分けて考えたとき、イベントのようなハード事業をやるよりは、カッパみたいな夢のあるものを探していく途中で、カッパはいなかったけれども、別のものが何か見つかったというようなソフト事業に力を入れていこうということなのです。