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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇金毘羅街道のできたころ

 金毘羅街道ができたころの川上は、たびたび大水害に見舞われていたそうです。和銅年中の西暦710年ころ、今から1,288年ぐらい前の川上は、荒れた扇状地に奥松瀬川の本谷(ほんたに)川、河之内の表(おもて)川、井内川、それに渋谷(しぶたに)川などが合流して、一つの大きな川となり、柳土手もなかったころは、大水が出ると、今の大宮神社の下あたりまで水がやってきたそうです。また海上(かいしょ)の三島神社の裏に堤のないころは、山之内よりあふれだした洪水が、北方(きたがた)の西部を侵すことがしばしばあったようです。そのように洪水のために流れて変化する地帯は避けて、安全で流れない土地を、人々は歩き通ったものと思われます。
 すなわち、海上から医王寺(いおうじ)前へ、そして上福寺前を通り、原、鳥の子、それから小桧皮(こひわだ)峠に出て、三軒屋、そして大桧皮峠へと歩いたのが古い金毘羅道のようです。
 その後、自然のままに流れていた重信川や南の表川にも、人々の努力によって堤ができて、洪水の害を防ぐことができたので、道路も新たに平坦部の中央を貫く金毘羅道となったようです。そして、茶堂から米田屋の横の坂を登り上之町を行く金毘羅道の北を北方、南を南方としたようです。
 明治以前の川上駅は、駅場、宿場、商店が並び、にぎわったといいます。大宮神社の南には、市も立ってにぎわい、今も市場という小字(こあざ)が残っています。当時は、川上の地域内では、ここが商工業機能を認められた唯一の場所と、藩から特別に黙認されていたと伝えられています。ちなみに、大宮神社の石段を築いたのは天保2年(1831年)今から167年ほど前で、石には鍵屋仁兵衛、伝原(でんばら)覚四郎、戎屋(えびすや)国右衛門、熊野屋半次郎、島屋喜蔵、米田屋政蔵、三原屋和平などの名が連なっています。現在も残っている屋号、及びこの絵図にある名前の方々の羽振りの良さを思わせます。