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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇川上地区に電灯がともったころ

 次に、川上地区に電灯がついたころのことについてお話をしたいと思います。
 電灯は、川上が横河原(よこがわら)(重信町)など、よその地区より早くついております。川上地区に電灯をつけたのは、松瀬川(ませがわ)横灘の仙波茂三郎という方です。この方は、早稲田大学を卒業して川上に帰って来られたのですが、大学時代を東京で過ごし、電気の有り難さを身をもって体験しておられたので、川上の田舎にも早く電気をつけないといけないというようなことで、自己資金6千円を出して、大正4年(1915年)に、松木喜一という方と一緒になって、則之内恵雲という所に、井内(いうち)川の水を引いて水力発電所を建設したのです。この発電所は、松木喜一の喜と、仙波茂三郎の茂をとり、喜茂発電所としたといわれておりますが、営業を開始して川上一円に配電し電灯をつけたので、その後、川上電気所と名を改めました。さらに、大正9年(1920年)には資本金を10万円に増資して、川上水力電気株式会社を設立し、電気の供給地域も川上、三内、北吉井、拝志(はいし)と拡大していったのです。その時足りなくなった電力は、鞍瀬(くらせ)発電所より受電しておりました。そのころの会社の組織は、社長、支配人のほか、技師、それから技手、電気工等の12名で組織されていたそうです。その後、電気製品の発達は目ざましくなり、岡部、渡辺、菅野という3人の方が、精米機をモーターでやりたいというような申し込みがありましたが、そのモーターを動かす容量がないので、どうしても伊予鉄電気株式会社と一緒にならないといけないというようなことで、伊予鉄電気と合併しまして、川上水力電気株式会社というのはなくなったのです。
 現在、電気は天山(あまやま)変電所(松山市)のほうから川上のほうへ送られてきておりますが、その当時は藤原というところに変電所があり、その変電所から川上へ送電することになり、川上水力電気株式会社の発電機は、久万町直瀬発電所に転売して、現在に至っているのです。
 そういうようなことで、川上は、他の地区より早く電気という文化の栄に浴したのです。
 どうも長いこと、御静聴ありがとうございました。