データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇昔の川上駅のようす

 川上駅は平安時代前期に形成され、そのころから道の制度も整ってきたといわれております。江戸時代になると、一般庶民の間に神仏が崇敬されるようになり、川上駅では、讃岐金毘羅宮や、石鎚大権現等に参詣する人々が宿場に出入りしたり、諸国からの商人が集まって来たりしたといわれています。
 そのため、この人たちを送り迎えする籠(かご)や駄馬が群をなして往来したといわれ、当時の川上駅には駄馬組合があり、久米郡や浮穴(うけな)郡の村々から村人が交代で伝馬屋につめかけ旅人や荷物を運んだのです。これらのことから、人馬の往来と物資の流通の中心地として川上駅の存在は大きかったといえると思います。また、川上駅には、明治以前からの宿場町として、宿屋もたくさんありました。米田屋、大頭(おおと)屋、明河(みょうが)屋、千鳥屋、小倉、上杉といった旅館は、今はほとんど残っていませんが、その子孫の方々は元気で頑張っておられます。
 次に、昔はあったが、現在はないというようなものをお話します。
 まず、川上には造り酒屋が5軒あったのですが、現在はなくなっております。それから、鍛冶(かじ)屋です。やはり昔は野鍛冶はなくてはならないもので、川内には6軒ほどありましたが、現在は全然なくなっております。それから下駄(げた)屋です。これは、昔から中之町に高橋という下駄屋がありますが、昔ここには一人前の職人が6名もおりまして、100足以上の下駄を、毎日こしらえて、それを松山の大街道方面の大きな下駄屋へ卸していたそうです。それが今、下駄をはく人はいませんし、桐のまさ下駄を知っている人もいなくなったように思います。
 次に風呂屋です。現在はなくなりましたが、当時は、松山より上では川上にしかなかったのです。実は、私のうちが風呂屋をやっておりました。当時、私の父は、松山に村上たばこ元売りさばき所という専売局の下請けがあり、そこに出ておりまして、平井から上の6か村の煙草店への煙草の卸をやっておりましたが、いろいろなことがありまして、どうしても風呂屋をやらないといけないというようなことになりまして、父と一緒に私も風呂屋をやった覚えがあります。
 次に提灯屋です。これは提灯と傘をやっていた店が上砂(あげすな)と天神町にあって、2軒とも村尾という名前でした。
 次に菓子屋です。これは、お菓子を売るだけのお店ではなくて、つくって販売する店のことです。川内町には、川端と桑原というお菓子屋があり、そこの人たちは、松山の弁天町(今の千舟町。卸菓子屋が建ち並んでいた。)で修行をして川上へ帰って、お菓子屋を始めたのです。川端さんが「桜三里羊羹(ようかん)」というのを売り出しまして、非常に好計を博したような時代もあったのですが、その2軒とも今はもうやめておられます。
 次に製縄業、いわゆる「縄ない」です。これは、高市さんという方が盛んにやっておられたのですが、なくなってしまいました。
 次に劇場です。これは、「名越座」という、建坪が300坪(約1,000m²)で、舞台には回り舞台があるというような立派な劇場でして、このようなものは松山から上には全然なかったと思いますが、これも現在はなくなってしまいました。
 最後に皆様にお話しておきたいことは、明治末期より現在に至るまで、川上にはお医者様が他の町村より非常に多くて有り難かったということです。私の子供のころには、天神町に高須賀さん、そして下之町には、木下さんというお医者さんがありました。
 これで、一応、昔の川上駅のようすを終わらせていただきます。