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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇街道に残るもの

 昔、桜三里のことを中山越(なかやまごえ)と呼んでいたのですが、桜のほうが有名になりまして、桜三里という言葉になっております。『愛媛の面影』と『伊予温故録』の中には、中山越のことが書かれています。例えば、愛媛の面影では「周布(しゅうふ)郡滑川(なめかわ)に沿って、西久米郡に出る山道あり中山越と名(なづ)く」とあり、周布郡というのは、現在のだいたい丹原町のことです。その当時は、今の東予市のあたりは桑村(くわむら)郡とよばれていまして、周布郡と桑村郡が一つになって現在の周桑(しゅうそう)郡ということになったわけです。いずれも川内町と同じ松山藩領で、約2万石の石高を有していたということを御認識いただきたいと思います。ですから、中山越は、いわば松山藩内を結ぶ一つの道であったのです。
 それではここで、中山越に関する資料をいくつか見ておきたいと思います。
 まずお手元の資料1「風流をたしなんだ桜三里」ですが、これは今から210年前の天明8年(1788年)に、川上神社へ奉納された俳額の元書きです。この額を奉納した翌年、川上神社付近で約40戸が焼ける火災がありまして、既にこの俳額は焼けてなくなっているのですが、その一部をここへ掲載させていただきました。
 次に「中山越をはさんだ俚謡(りよう)」を、資料2に出しています。上の五つに、(川内)、(丹原)というのがないのは、両方にある俚謡だからです。「鍵屋金持ち、佐伯屋地持、ます屋藤四郎さん女持ち」は川内のものですが、次の「久米屋金持ち、角地持、向かいの万さん娘持ち」は丹原町のものと言う具合に、中山越をはさんだ両方に、非常に似通った俚謡が残っているのです。
 また、明治10年代に川内町に宿泊した人たちがどこから来たのか、当時の宿帳の写しを調べてみますと、次のことが分かりました。まず県内では、周布郡、桑村郡からが最も多く、次いで松山市、新居浜市、宇摩郡で、南予や上浮穴郡からは少ないのです。県外では、徳島県が最も多くて、その中でも美馬(みま)郡(特に舞中島村)、阿波郡、三好郡などは本県の宿泊客に次ぐ多数となっています。その他の県としましては、石川県が多いのですが、これは、まだ富山県になってなかった時代であろうと思います。次に広島県、和歌山県、大阪府、京都府、愛知県などの順となっています。こういうことから考えますと、川内町に広範囲に人の行き来があったことが分かります。