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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇熊野詣・金毘羅詣に、なぜ人が引き付けられたのか

高市
 それでは続きまして、小山先生に私のほうからいろいろ御質問をしまして、街道というものについて、もう少し詳しくお教えをいただきたいと思います。
 ではまず、「蟻(あり)の熊野詣」とよくいわれるように、先程、先生のお話にもありましたが、主に先達が地域のいわゆる上流、あるいは中流の階層の方を、熊野に導かれるということなのですけれども、なぜ熊野や金毘羅に人々は引かれて、そのようにお参りをしたのかということについて、小山先生の方から、もう少し詳しく教えていただきたいと思います。

小山
 それは一番重要な問題で、かつ一番難しい問題なのですが、やはり信仰だと思います。つまり、熊野権現というのは、大変有り難い神様だというふうに、中世の人は考えたし、金毘羅さんでいえば、金毘羅詣が盛んになる江戸時代の半ば以降ぐらいから、大変有り難い神様だというふうに思われたわけです。しかし、私たちは、なかなかその時代の人たちのようにはなりきれないものですから、本当になぜそんな有り難い神様かというのが、一番分かりにくいのです。
 そこで、豊富に残っている文献の上からその答え(ヒント)を探っていきたいと思います。例えば、先程いわれた「蟻の熊野詣」という言葉ですが、これは意外と新しい言葉なのです。中世では今のところ見つかっておりませんで、江戸時代の初めごろになって、ようやく出てくる言葉です。しかも、どちらかというと熊野詣が少し衰えかけて、伊勢参りのほうが盛んになってきた時に、「昔は熊野詣は伊勢参りよりすごくて、まるでアリの行列のように来ていたのです。」というような意味で、どうも使ったらしいのです。では、そんなにアリの行列のように人が歩いていたのは、いつだということになると、これはやはり一般の庶民が参詣しないと、なかなかそういうふうにはなりません。
 誰が参詣するかという点も、いろいろ変遷がありまして、面白いのです。平安時代や鎌倉時代の初期ですと、もっぱら行っているのは上皇とか女院とか貴族などですが、そのほかにも社会的弱者と思われる最底辺の人が、なぜか早くからお参りに行っているのです。で、その中間の武士とか、一般の庶民はかなり遅れまして、武士が行き始めるのは、だいたい鎌倉時代半ば以降で、庶民になりますと、もっと時代が下がって室町時代や戦国時代ということになります。なぜ、そういう人たちの参詣が遅くなったかというと、これは貨幣経済というのが、ある程度発達しないと行けなかったからなのです。というのは、こういう人たちは、今の旅行と一緒で、お金を出せば、泊まるところや食事が自分で調達できるようにならないと、行けなかったのです。早くから、参詣していた貴族などは、誰か、たとえば国司や地元の有力者に泊まる所や食糧を調達させることのできる人でありました。
 では、最底辺の人たちがなぜ行けたかと言いますと、実際に平安時代の終わりごろの日記に、目の見えない人が熊野の山中で食料がなくなってへたりこんでいたのを助けたという記事があります。また、小栗判官(おぐりはんがん)の説話からは、乳母車のようなものに乗せて沿道の人たちが順に押して熊野につれていってやったのではないかと想像されます。そういう恵まれない人たちを、熊野へ順に送ってあげたり、食料を恵んであげたりして助けると、熊野権現の御利益があると考えられていたのです。
 また、女性が早く行けたというのは、熊野は一種の修験者の修行地ですが、それにもかかわらず、女性を嫌わなかったからなのです。石鎚には、今でもお山開きの日だけは、女性は登ってはいけないというきまりがあるそうですが、昔は高野山もずっと女人禁制でしたし、今でも大峰山の一部は女子供は登ることができません。それに対して、熊野というのは、初めからそういう制限がなくて、むしろ恵まれない人は大いに歓迎しましょうという有り難い神様でしたので、社会的な弱者が早くから参詣に行っているのです。
 しかし、熊野詣の本質は何であるかというと、その一つは浄土信仰だと思います。つまり、阿弥陀浄土の世界、というのはあの世の世界のことなのですが、人間は、現実の中にそういう世界をつくりたいと願うわけでして、それが熊野だということです。
 もう一つは、割合しんどい道を行かせることで、これが苦行滅罪の旅になると考えたのです。つまり、悪いことをしている人でも苦行をして、汗を流して行けば罪がどんどん消えていく、御利益があると思っていたのです。これにも、やはり山伏が関係しており、修験道と浄土信仰が融合したものと私は思っているのです。
 ところが、昔の貴族は、どうかというと、これは案外現実主義で、現世利益でありまして、どんなことを言っているかというと、「熊野へ参詣するたびに、官位が昇進し、出世していくのでうれしい。」とか、「病気になったから、病気を直すために行く。」というふうなことを書いておりまして、本質は現世利益なのです。とは言え、これはやはり、あくまでも、信仰の道であり、精神としては、浄土へ苦行しながら近づくということがあるのではないかと思います。
 これに対して、江戸時代に盛んになった伊勢信仰では、もう少し物見遊山的な要素が出てきます。これは、三十三所観音巡礼もそうですが、三十三所だけ回るのではなくて、奈良へ行ったり、京都へ行ったりして、都会の真ん中でけっこう遊んでいるのです。
 伊勢には、門前に遊ぶところがありますが、熊野にはありません。ですから、精進落としというのは、大阪の淀川の下流まで帰って来ないとできないのです。そういうように、江戸時代になると、だんだん遊び心が出て参りまして、伊勢へ行った後に、金毘羅まで来る人が関東とか東北からでもけっこう多くなります。信仰は、江戸時代でもなくなっていないのですが、その中に物見遊山的な要素がだんだんふえてくるように思います。