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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇金毘羅街道が結ぶ俳文化

高市
 小山先生、どうもありがとうございました。次は、私のほうから金毘羅街道が結ぶ俳文化ということで、お話をさせていただきます。
 私は地方俳諧(はいかい)史に興味を持っておりまして、今年の夏は、川内町の主だった寺社にお参りをさせていただきまして、俳額を見せていただきました。今日はその中から、川内町南方にあります熊野神社の2面の俳額について、少しお話をさせていただいたらと思います。
 この熊野神社というのは、室町時代の応永2年(1395年)に御当地の高須賀氏が熊野から勧請(かんじょう)したといわれております由緒あるお社です。ここには、俳額が2面ありまして、一つは明治13年(1880年)、今から118年前の俳額ですが、もう磨滅がひどくて、下からは判読できませんでした。掲額をする場所とか俳面の材質にも左右されますが、だいたい俳額というのは、100年に1分(約3mm)ずつ磨滅するといわれております。
 余談になりますが、新調の秋祭りの幟(はた)はゆうに50年もつといわれておりますが、風雨にあいますと、ちょうど洗濯のもみ洗いと同じ状態になり、たった1日でにじみが出てきます。そのぐらい風雨というのは恐いわけです。
 あともう1面は、幕末の弘化4年(1847年)のものですから、151年前のものなのです。この弘化4年の俳額の撰者は「涼蔭園虚白(りょういんえんきょはく)」という、京都の東福(とうふく)寺のお坊さんで俳諧をよくした人です。そして、会林(かいりん)と呼ばれるお世話人には、御当地の吐雲(とうん)という人と、因是(いんぜ)という人と、茂松(もしょう)という3人の名前が記されています。吐雲という方は、則之内(すのうち)の庄屋で宇和川伝左衛門という人でした。因是は、南方の庄屋で渡部二郎兵衛。それから茂松は、川上村で鍵屋という屋号を持っておりました坂本光隆です。いずれも当地の富裕層で、地方宗匠格の俳人です。また、因是の弟の因阿(いんあ)という人は、伊勢に神風館(しんぷうかん)という古い俳諧の結社がありますが、幕末のころそこに行って、芭蕉忌(ばしょうき)(時雨忌)の興行をしております。それから茂松は、弘化2年、京都の湖雲堂というところから出版されております『知那美久佐(ちなみぐさ)』という撰句集の会林の補助となっていますが、この中には、川内の俳人の方14名の句が載っており、編者は松山の魚町に住んでおりました吉永烏岬と呼ばれる、表具師で骨董商を営んでいた方なのです。この吉永烏岬も、願主(俳額を掲げる中心になる人)の一人であり、渡部家の一族である渡部玄来という方も願主に名前を連ねています。こういうことから考えますと、この川内町は、俳諧の非常に盛んな所だったと言えるのではないかと思います。
 この俳額には、四季混題といいまして、いろんな季節の句が載せられていますが、その中で秀句を選んで額に掲げたという意味のことや、4万余句を集めたということも書いてあります。この4万句集めるというのは、大変なことなのです。たとえば、江戸時代前期、寛文12年(1672年)宇和島の伊達藩の家老である桑折宗臣(こおりむねしげ)が、伊予では初めての撰句集を出したのですが、ここに載っている伊予の俳人が181名です。その中で、宇和島の俳人が、桑折一族の7歳になる子供も入れて、156名います。これから推測しますと、元禄より前の江戸期にだいたい俳人が1国に180人前後いたことになります。幕末になりますと、俳人口は急増しまして、いろんな俳文学者の方に聞いてみましても、だいたい1国800人から1,000人ぐらいいたようです。ですから、4万句集めるというのは、一人が10数句投句しても、これは大変な数なのです。俳諧用語には万句合わせとか、万葉句合わせという言葉もありますので、4万余句というのは、恐らく多く集めたというような意味ではないかと、私は思っています。
 昔は俳額に名前を選んで載せてもらうためには、入れ花料とか入花(にゅうか)料というお金が、1句選んでもらうのにだいたい5銅(江戸時代の貨幣は金子と銀子と銅銭という3貨で、1銅は1文のこと)必要でした。ですから、4万句集めたとすると20万文ということになります。これは、1両が4,000文ですから、50両というお金になり、まず1村では集めることはできないだろうと考えられます。
 江戸時代の庶民の、たとえば大工さんで1年間の収入が32両ぐらい、また、生活費が夫婦と子供1人で30両ぐらいなのですから、50両というお金は大変なお金です。そういう経済的な面、先ほどの俳人口という面から言っても、4万句というのは、これは多く集めたという意味ではないかと、そのように私は考えております。
 また、業俳(ぎょうはい)といわれているプロの俳人は、主に入れ花料とか、入花料といわれるもので生活をするわけですから、そのように考えると相当な収入が添削料として入ったということになります。
 次に、どのようにして俳額を掲げるかということをお話しておきたいと思います。
 まず最初、なぜ寺社に俳額を掲げるのかといいますと、基本的には、「法楽(ほうらく)」といいまして、神仏に俳諧であるとか和歌であるとか、歌舞音曲などを奉納しまして、神仏を慰めて家内安全や五穀豊穣を祈るためなのです。しかし、願主一人では俳額は掲げられません。それは、俳諧というのは、もともと座の文学といいまして、多くの人の協力がいるからです。それで「会林」というお世話人を何人か設けるのです。会林の「林」は、人が多く集まる所という意味で、例えば「談林」というのは、元来お坊さんが集まり学問をする所という意味なのです。
 俳額を掲げるに際しましては、この「会林」というお世話人を決め、そしてどういう目的で俳額を掲げるかとか、規模を決めるのです。そしていよいよ句を募集するわけですが、そこでは、この熊野神社のように、多くの句を集める場合、「取次(とりつぎ)」と言う下部組織をつくり、この取次から会林に句が入ってくるようにします。句が集まりますと、会林と願主は、京都の俳諧宗匠の所に撰句依頼に行きます。願主や会林が行けない場合は、飛脚宿を取次にして、そこから宗匠のところに句が行くような仕組みにしているのもあります。熊野神社の場合は、恐らく金毘羅街道を通って京都に行ったのだと思います。
 そのようにして、宗匠のところに句が集まりますと、宗匠は撰をしまして清書し、「巻(まき)」といわれる撰句帖を会林のところに送ってきますので、それを「開巻披露」といいまして、お寺ですと庫裏(くり)、神社ですと拝殿などで披露をして、地元の能筆の方に書いてもらって掲額をするのです。掲額の時には、絵馬堂とか拝殿とかを永久に使うわけですから、「詞堂金(しどうきん)」といって永代使用料のような名目のものをお寺さんとか神社に払ったりします。ですから、俳額のことを永額ともいうのですが、このようなことを考えると、会林とか願主という人は、やはり経済的に相当な力がある方でないと難しいということになります。
 撰句にあたっては、撰者から景品も出ます。だいたい巻といわれるものを見ますと、奥勝(おくまさ)りとか、逆勝りという言葉を使っておりますけれども、撰句帖の最後に書いてあるほうが1等なのです。いわゆる、天地人で、だいたいこの天になった方が、撰者の直筆の短冊とか撰句帖をもらうわけです。あと2等賞とか3等賞の人は反物とかたばこ盆とか、茶壺とかいうふうなものが撰者から景品として送られてくるので、それが非常に楽しみだったわけです。
 このように、俳諧というのは座の文学でありまして、中央の宗匠や地方俳人とのコミュニケーションがなければ、なかなか成り立たないものなのです。この川内町は、ちょうど宿場町という関係から、東予俳壇と松山俳壇の接点になっており、東予の著名な俳人が撰者になっている俳額もありますので、文学的にも非常に豊かな土壌であったのではないかと思っております。
 例えば、俳人の小林一茶は、寛政7、8年(1795、96年)に、讃岐と伊予の間を50日で往復して、伊予に2度来ております。残念ながら一茶は海沿いを通っておりまして、この川内町には足跡を残しておりませんけれども、そういう俳人がどんどん訪れるなどという文化の交流があったのです。小林一茶が土居町の島屋という旅籠(はたご)に泊まった時には、金毘羅詣の参拝客と相部屋になったといったことも書いてあります。
 このぐらいで私のお話を終えさせていただいたらと思います。