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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇熊野古道とは

小山
 次に、熊野古道の歴史と現状についてお話させていただきます。
 皆さんのお手元に、紀伊半島の地図があると思います。これは修験道の研究で有名な宮家準先生の『熊野修験』(吉川弘文館)という本の中に載っている地図です。いろいろな方々が、多少違った地図を書かれているのですが、これが一番詳しいと思い、借用させていただきました。
 紀伊半島の南部を、古くから熊野とか熊野の国と言いますが、その熊野には、熊野三山と申しまして、紀伊半島の先端のほうの熊野坐(います)神社(本宮)、熊野速玉(はやたま)神社(新宮)、熊野夫須美(ふすみ)神社(那智)の三つの神社があります。この三つは本来は別々の神様であったと思われるのですが、一体化しまして熊野三山となったのです。そして、この熊野三山に参ることを、昔から熊野詣、あるいは熊野参詣といっておりました。何回も熊野へ行く人の中には、熊野詣として本宮にだけ行って帰る人もありますが、基本的にはこの三つの神社を巡拝することなのです。そして、この熊野への昔の参詣道、熊野へ参る昔の道のことを熊野古道とよんでいるわけです。
 神社やお寺を参詣することは京都の近辺では古くからありましたが、遠距離の参詣では熊野詣が歴史も古く、しかも、その古い様相を今も復元できると思います。熊野参詣の記録は、確実なもので言えば、平安時代の半ば、西暦900年代の初めに宇多(うだ)法皇(867年~931年)から始まっています。熊野は宗教的に神秘的な所ですので、山の中にこもって修行したり、那智の滝で修行したという人は、すでに奈良時代から知られておりますが、いわゆる参詣ということでいうと、熊野参詣は平安時代半ばには確実に始まっており、一番古いということになるのです。そして、この熊野への参詣の仕方が、後の伊勢参りや各地方のさまざまな霊場への参詣の一つのパターンをつくったといってもいいのです。さらに言えば、参詣道が、三重県、奈良県や和歌山県の南のほうを中心に、現在でもかなり長距離にわたって残っているということでも、大変注目される地域です。
 熊野参詣については昔の貴族の記録がけっこう残っておりまして、それによりますと、京都から熊野三山を巡って往復いたしますと、だいたい一か月ぐらいかかったようです。その当時、熊野参詣の仕方は、古くは紀路(きじ)(紀伊路)といって紀州を回って行くコースと、伊勢の方から来る伊勢路がありました。これについては、後白河(ごしらかわ)上皇(1127~92年)の撰によります『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という平安時代末期の流行歌を集めた本の中で、「熊野へ参るには紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し」という歌があります。これに続けて「広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」とあり、どちらでも一緒だと言っているのですが、実際には一緒でなくて、伊勢路のほうが楽な道だといわれています。また、宇多法皇に続き、平安時代半ばに、熊野参詣をした花山法皇という方は、2回目の熊野参詣をしようとした時(999年)に、実現はしなかったのですが、「熊野へ行きたいのだけれども、非常に寒くなって歩いて行くのは大変なので、内々に船に乗って伊勢から行きたい。」とおっしゃったと書いている貴族の日記があるのです。どういうことかと言いますと、伊勢から行く道も、紀伊から行く道もあるのだが、紀伊から行く場合も、部分的に船に乗ったりする所もあるのですが、基本的には歩くコースが多くて長いので、大部分を船で行く伊勢路のほうが楽なコースだと言っているのです。
 本格的に熊野詣が盛んになりますのは、平安時代の終わりころ白河上皇や鳥羽上皇(1103年~56年)が参詣した院政時代からですが、この時期になりますと、紀州の道がメインルートになりまして、伊勢のほうからは行かなくなるのです。その理由は、たぶん、この熊野への道案内をする人たち、これを先達(せんだつ)と申しますが、その人たちの流儀によるのだと思います。四国でも石鎚(山)に案内する人をそう呼ぶそうですが、熊野参詣でもっぱら上皇たちを先導した先達は、園城寺(おんじょうじ)の系統の坊さんで、山伏(やまぶし)だったのです。ですから、山伏は修行の道ということで、なるべく徒歩で行き、しかも難路を選んだということが考えられます。具体的にいうと、船に乗るのは淀川と、それから本宮と新宮の間の熊野川の部分だけで、あとは基本的に徒歩という方式が確立し、これが公式ルートになったのです。
 ところが、院政時代が終わり、鎌倉時代末期や南北朝時代になってきますと、園城寺の系統の山伏たちの権威が衰えてきて、紀伊路の中でも別のルートが出て来たり、あるいは、中世の終わりごろになると、伊勢路もまた復活してくると私は考えています。
 地図を見ながら中世の紀伊路を簡単にたどってみますと、淀川を下りまして、まず1番の大渡(おおわたり)王子という所、ここは渡辺王子とか窪津(くぼつ)王子とも言いまして、「渡辺の津」という港があった所ですが、そこに上陸をして、後は摂津(せっつ)から和泉(いずみ)をずっと南下します。そして、65番の田部(たなべ)王子という所、現在は紀伊田辺というJRの駅がある所ですが、そこから一路東のほうへ山道に入って行くのです。実際の本格的な山道になりますのは、71番の滝尻王子という所からです。それまででも、いくつも峠を越えますので、けっこう山道ですし、田辺の少し手前の千里の浜では、海岸線に近い所を行くのですが、滝尻からは特に険しい山道になります。現在では、その71番の滝尻王子から本宮までが歴史の道に指定されているのですが、田辺から本宮に向かう道は「中辺路(なかへち)」というふうによばれています。「へち」というのは、四国のお遍路さんの遍路と同じで、へんぴな所という意味です。そして本宮に参りまして、それから新宮へは船で行きます。現在は国道がありますけれども、昔は道がなく、なかなか通行が難しかったのです。そして新宮から那智へいき、那智からまた同じコースを引き返すのです。
 ただ、時には那智と本宮を近道する人もあり、両者をつなぐ大雲取(おおくもどり)、小雲取というやや険しい道もあります。この古道もよく残っておりまして、併せて歴史の道に指定されております。
 熊野へ行く時には、参詣道に点在する王子社に順次参詣をして行くのですが、この王子というのは、一言でいえば、熊野の神様の子供の御子神だと考えていただければいいのです。しかし、不思議なことに、この王子の出現する所は、伊勢路にはなくて、紀伊路と中辺路ルートに限られておりまして、現在でも神社として祀られていたり、その跡地があります。しかし、江戸時代になって、紀伊半島をぐるっと回る大辺路というルートができますが、ここにもほとんど王子はありませんし、あったとしても新しくできたものなのです。
 また、中世の終わりから江戸時代にかけまして、高野山から真っ直ぐ南下して熊野へ行く小辺路というルートも開かれました。この大辺路、中辺路、小辺路というのは、距離の違いだと言われています。この小辺路を行った最初の記録は、天正元年(1573年)に、伊予の豪族で、土居清良(きよよし)という人のものです。この土居清良は、有名な『清良記(せいりょうき)』という一代記に描かれている人物で、高野山とか、あるいは熊野の信仰に厚い人です。この道は、今でも非常に良い道が残っていますが、1,200~1,300mの峠を三つぐらい越えないといけないので、普通の人が行く道としては一番の難路です。
 さらに難路は、吉野と本宮を結ぶ大峰(おおみね)道ですが、ただしこれは、道案内をする山伏が修行する所で、その修行は熊野奥駆けなどと言われます。
 私が戸田先生と行ったのは、メインルートで歴史の道に指定された部分なのですが、当時はまだ整備がされておらず、最初のころは道に迷ったり、歩けなくなり林道をう回するとか、そんなことをしました。その後、10年ぐらいかけて、川を渡る所には橋をかけていただいたりして、整備が進みましたが、逆にやや過剰整備ではないかと思われる所もあります。
 最近、私は伊勢路のほうにも行っております。本当は、伊勢神宮からスタートすればいいのですが、私が歩いたのは長島から以西の東紀州地域といわれている所だけです。なぜかといいますと、近ごろ東紀州の人たちが熱心に古道を整備したり、イベントをやったりしているからです。
 伊勢路は石畳が非常に立派です。紀伊路でも那智と本宮の間の大雲取や小雲取には、若干石畳がありますし、小辺路などは最も素朴な道というように、それぞれ道には個性があり大変面白いのです。
 また、中世から始まって江戸時代まで、これらの道を歩いた人の記録もけっこう多く残っていますので、私の場合は、そういうものを読みながら、それと現地を対照させながら行くという、一種の歴史の追体験をするというようなことで研究をさせていただいております。
 最初の話は、とりあえずこれぐらいにさせていただきたいと思います。