データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇川入りを中心とする祭りの魅力

 祭礼の見せ場の一つは、早朝の姿です。例えば、15日の伊曽乃神社境内での早朝の宮出しや、16日早朝のお旅所を囲む70余台の提灯を灯しただんじりの光景や、数百個の提灯をつけたみこしやだんじりの練りなど、夜が明けきらない中での祭りの風景は、西条でなければ味わうことのできないものです。
 二つ目の見せ場は、16日の午前7時ころの一番屋台が西条藩陣屋跡(西条高校)の御殿前に整列しだしてから、御神輿が来て入れ替わりに出発するまでの間です。その間は、だんじりやみこしの昼の顔をゆっくりと見ることができます。
 逆に、見せたくない場面もあります。西条祭りは合計距離51km余りも巡行しますので、かき手は大変疲れるのですが、その中でも一番疲れるのが、古川・玉津橋線で昼食をとった後の、玉津や明神木(みょうじんぎ)へ向かうあたりです。この時分になると、町の中で見物のお客さんがいる時には威勢の良かったかき手の人も、疲れて元気がなくなり、だんじりにもたれてついて行っているだけになります。総代の人が、「ちょっと、皆、歌(伊勢音頭)をうとて(歌って)や。」と言ってハッパをかけても、「歌かね。それより、はよう(早く)、お旅所に帰りたいわね。」と言ったり、お酒を勧めても、手をふるだけで飲もうとする人はあまり見かけないというような状態になっているのです。
 三つ目の見せ場は、観光客がたくさん来ております加茂川での川入りです。
 祭りに参加している人も、見物に集まった人々も、「今日からもう365日たたなかったら、これは見られないのだ。」という気持ちで、加茂川の川原へ来ているのだと思います。
 加茂川の土手沿いにだんじりが整列する中で、神戸(かんべ)地区のだんじりは、川入りのために川原に置かれ、御神輿の到着を待ちます。
 ここで、私がまだ子供だった昭和25年(1950年)ころの様子を思い出してみますと、加茂川の川入りをするあたりに一銭橋がかかっており、子供たち40数名が、箒(ほうき)持ちを先頭に、お道具を肩に担いだり、二人一組になって唐櫃(からびつ)や毛槍などを運びながら、その橋を渡ったものでした。そして、子供たちの後に神主さんが馬に乗って続き、御神輿だけが川入りし、西の空が茜(あかね)色に染まるころ、神主さんが馬上から御弊(ごへい)を神社の方に向けて2回、3回と振れば、川入りは終わりであったのです。
 現在は、全部のだんじりやみこしが、加茂川の土手に勢ぞろいした中を、お道具行列は伊曽乃橋を渡りますが、御神輿は加茂川の清流へ入り、そしてそれを川原で待っていた神戸地区のだんじりも、一斉に川の中へとなだれ込み、水の多いときなどは腰くらいまでつかりながら、かき比べをするのです。この御神輿とだんじりが入り乱れて練る様子は、茜色の夕陽に映えて、御神輿の神々しさとだんじりの彫刻の彫りの見事さや漆塗りの美しさに数万人の観衆が酔いしれて、拍手がなりやみません。「もうあと、何分でお宮入りになるのだろうか」と見守る観衆とかき夫の気持ちが一つになり、祭り(神様)との別れを惜しんでいるのです。
 わずか15分間ほどの時間ですけれども、全身全霊を打ち込んで、かき比べる姿は、とうてい口で言い尽くせるものではありません。
 天明6年(1786年)ころには、奉納された台数がだんじり12台とみこし4台であったものが、現在では、だんじりが77台、みこしが4台になっています。ですから、その運行は、どんなにしても、昔の時間帯には、神様は帰れないし、川入りも難しいのです。それで今年は、「5時15分になったら、神様は川入りをしますよ。」と、総代会にも申し上げたのですが、そういうふうなことで、時間的なことを詰めていかなければ、観光的要素を含んだ西条祭りは運営が難しいのです。ですが、一方では、これはあくまでも神事であるということを、念頭に置いておかなければいけないのではないかなと思います。毎年、伊曽乃神社・鬼頭会・西条祭振興会等、関係者が数回の会合を持ち、古き良き時代の形を残しながら、今の時代にあった西条祭り、西条らしいいい祭り絵巻を後世に残そうと、努力をしているのです。
 このけんらん豪華で日本一を自負しております西条祭りを保存し伝承していくためには、祭り行事の内容や歴史的な経過などを正しく伝えて、地域の連帯感を絶えず盛り上げる努力をして、祖先や郷土が大切にしてきたものを理解することが大切だと思います。そして、そうすることによって、西条祭り、伊曽乃神社の祭りが今以上のものになるのではないかと思うのです。そういう気持ちで、私は西条祭りの中の伊曽乃神社の祭りに取り組んでいきたいと思っています。
 これで、終わりたいと思います。ありがとうございました。