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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇西条祭りと私

佐藤
 今、深見先生から、「祇園祭と私」ということで、貴重なお話をいただいたのですが、私も同じように「西条祭りと私」ということを考えてみましたら、やはり子供心というのが大事なのかなあと思います。
 だんじりやお囃子(はやし)の太鼓が鳴ると、私たちは今でもワクワクするのですが、今の子供たちも、やっぱり血沸き肉躍ると思います。また、そういうのが西条のだんじり囃子ではないのだろうかなと思います。だんじりを見たり、だんじりが動いているのを見たらうれしくて、かっこいいなと思うことも、先程言われた美意識の一つなのだろうかなと思うのです。そして、西条では、だんじりが本当にかっこ良くて、ついて行きたいなという子供心が、ずっと現在まで続いているのではないでしょうか。
 深見先生のお話の中で、祇園祭の場合は、恐るべきものとしての神様があり、先祖からずっと受け継いだ仕来りを守ってきているということを言われました。また、祇園祭の山がお帰りになったのを「お迎えする」という言葉があったのですけれども、西条祭りの場合、だんじりがお帰りになったり、だんじりをお迎えしたりというふうに、だんじりそのものに神様を感じとる人は、いないのではないかと思います。
 ただ、西条祭りでも、伊曽乃(いその)神社の神様の乗った御神輿(ごしんよ)が加茂川をお渡りになるとか、お帰りになるとかいって、そういう時には、やっぱり神様を意識したお祭りが最近まで行われていました。しかし、今、だんだんとそういった神様意識というのが、西条祭りからは薄れていっているのではないかなと思います。そういうことを考えると、先ほどの、祇園祭には、非常に古い時代の、神を中心とした神事としての祭りが、かなり残っているというお話から、お祭りの原点を考えさせられました。
 最後の所の「仕来りは嫌なので、若い者が逃げていく。」という話は面白いと思いました。西条祭りでも、だんじりやみこしなどを組み立てる時には、仕来りにうるさくて、若い衆が付け方を間違えていたら、いろいろと言う方もおいでになるとは思うのですが、このごろはややもすると、かなり若い衆の自由になり、何か新しく変えていっても、それが自由であるというような、そんな形にだんだん変わってきているのではないかと思っています。