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わがふるさとと愛媛学Ⅵ ~平成10年度 愛媛学セミナー集録~

◇祇園祭について

深見
 失礼いたします。
 まず、祇園祭と申しましても、いったいどういうものか、御覧になった方はお分かりいただけると思いますが、簡単に説明させていただきます。
 今から千年ほど前の平安時代の始めに疫病がまん延しました。そこで、疫病退散を祈った八坂(やさか)神社に、全国の66の国の数だけ鉾を立て、洛中の男子がみこしを今の二条城の南にある神泉苑(しんせんえん)に送り、疫病の心霊を慰め、悪疫封じの神事を行ったのが、祇園祭の始まりといわれます。
 祭りは、7月10日朝、八坂神社の神職が鴨川から水をくみ上げる所から始まります。その夕方、みこしを迎えるための行列が出ますが、この行列は趣向を凝らした提灯(ちょうちん)をかざして町を練り歩くために、お迎え提灯と呼ばれています。みこしはひかれて四条大橋の中央まで運ばれ、そして、朝、鴨川からくみ上げた水をサカキの枝で2、3度振りかけて清めます。次の日から、1週間後に控えた山鉾巡行のため、各鉾町で鉾の組み立てが始まります。重さ10数tもある鉾は、くぎを一本も使わずに伝統の縄締めの技法で組み上げられます。昔の祇園祭では、全ての鉾に稚児が乗ったのですが、現在は長刀(なぎなた)鉾だけとなりました。この長刀鉾の稚児は、八坂神社に参拝し、10万石の大名の格式を授かるといわれていました。
 祭りの間じゅう、京都の町の駒形提灯や町家(まちや)の軒先の提灯に明かりがともると、夏の夜の水中花のように町がにぎわうのです。町には、「安産のお守り(厄よけ火よけのお守り)はこれより出ます。常は出ません。今(明)晩かぎり。御信心のおくかた様は受けてお帰りなされましょう。ろうそく一本献じられましょう。」とか「お守りいりませんかー。絵はがきいりませんかー。ちまきいりませんかー。」とかわいい子供たちの声が聞こえてきます。
 西陣織りやゴブラン織りの豪華な織物は、山鉾の胴掛けや前掛けに使われています。その意匠は、諸外国のものを積極的に取り入れてきた京の風土が守り育ててきたもので、世界的にも貴重な美術品があります。今日の国際化社会の先べんともいうべき、町衆(まちしゅう)の心意気であったのです。
 京の夏本番、7月17日が祇園祭のクライマックスです。長刀鉾の稚児が真剣を抜き、四条烏丸の大通りに張られた1本のしめ縄を、悪疫よけの願いを込めて切りおとすと、山鉾巡行の始まりです。巡行の先頭は、古来から「くじ取らず」で、長刀鉾と決められています。そして、長刀鉾の後ろからは、「くじ取り式」で決まった順番通りに山鉾が続きます。この順番を確認するのが、「くじ改め」の儀式です。四条堺町(さかいまち)の関所の前で一旦停止した山鉾から、町行司が進み出て、京都市長がふんする町奉行にくじを差し出すのですが、その趣向を凝らした仕ぐさは、山鉾ごとに違っているのです。
 山鉾の中で唯一のからくりがあるのは蟷螂(とうろう)山です。それは、中国の故事にちなんだカマキリと、御所車の車輪が動きます。山鉾は、毎年何かを新調復元しますが、そこには伝統の中から明日の京都をつくろうという、祭りを継承してきた町衆の心意気があります。巡行では、その熱き思いとエネルギーが一つになって、巨大な鉾が見事に動きます。
 祇園祭は正しくは祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、山鉾巡行は、本来みこしが通る都大路の汚れを鉾によって払うという思いに基づいていますが、中世になって山鉾巡行が町衆の手によって独立し、町衆の祭りという色彩が強くなってきたのです。
 以上で、祇園祭がだいたい、どんなイメージのものかは分かっていただけたと思います。もう少し詳しく申しますと、先ほどもお話しましたように、平安前期の貞観11年(869年)に疫病退散を願って、66本の鉾を神泉苑へ納めたのが祇園祭の始まりであるということになっておりますが、それとあわせて、もう一つ重要な要素があります。それは、八坂神社の祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)だということです。この素戔鳴尊は、インドでは牛頭(ごず)天王と呼ばれている神と同じであるとされております。牛頭天王の言い伝えは、『備後国風土記』にあり、どういう言い伝えかと申しますと、ある時、牛頭天王が旅の途中で難儀しているときに、巨旦将来(こたんしょうらい)という人物の所へ泊めてもらおうとしました。しかし、巨旦将来は、非常に裕福であったにもかかわらず、これを拒否いたしました。すると、巨旦将来のところに嫁いでいた巨旦将来の弟の蘇民将来(そみんしょうらい)の娘が、困った牛頭天王を見かねて、「私の父でしたら、泊めてくれるかもしれません。」と言って、父である蘇民将来の家を教えるのです。それで牛頭天王は、その女の教えてくれた蘇民将来の家を訪ねますと、そこはひどい貧しい家なのですが、牛頭天王が一夜の宿を請うと、自分の持てる限りのものを料理して、牛頭天王をもてなしてくれました。それで牛頭天王は非常に感激して、いったん引き上げますが、その後、もう一度やって参りまして、蘇民将来のもとを訪ねて、「お前たち、蘇民将来、ならびにその一族のものは、腰に茅(かや)で編んだ輪をつけておけ。それが難を逃れる合図である。」ということを教えます。さらに、巨旦将来の所に嫁いでいた娘を呼び出して、「急々如(きゅうきゅうにょ) 律令(りつりょう)(急ぎ急ぎて律令のごとくせよ)」という文句を書いた守り札を与えるのです。研究者によりますと、この「急々如律令」という言葉は、難を逃れる時の呪文のようで、歌舞伎の「勧進帳(かんじんちょう)」にも出てくるようであり、かつ天皇家が行う四方拝(しほうはい)の言葉の中にもあるようで、非常に由緒のある言葉だということです。
 話をもどしますが、その晩、牛頭天王は巨旦将来の住む地域に襲い来(きた)りまして、腰に茅の輪をつけず、かつ「急々如律令」という守り札を持っていないものを全員皆殺しにしたということです。それ以来、八坂神社の氏子は、蘇民将来の一族であるという証拠に「ちまき」というものを、祇園祭のときには門口にかけて、難を逃れようとしたといわれています。これが祇園祭の縁起のもう一方の重要な要素です。
 そして、これはユダヤ教の最大の祭りである「過越(すぎこし)の祭り」の縁起と全く同じ話なのです。この「過越の祭り」というのは、ユダヤ人がエジプトから逃れる時に、「長子の難」という難儀をエホバの神が下すのですが、その時に、エホバの神はモーゼを呼んで、「ユダヤの家のものは、全て門口に子羊の血を塗っておけ。」というふうに命令し、その晩、襲い来って、表に子羊の血を塗っていない家の長男を、皆殺しにしたという有名な旧約聖書の伝承です。