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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇宇摩の和紙づくりと焼畑

 今まで無税であった山林にも税金が掛かるようになりました。そこで、焼畑をしても食料だけでなく現金収入が欲しいと願います。自分の山だから勝手しだいということになりました。国は熱心に植林を勧めました。
 そのころ、宇摩(うま)地方の山間部でミツマタの栽培が飛躍的に広がりました。この勢いは、愛媛や高知、徳島県の焼畑地帯から、すべての山間部に広がっていったのです。そのきっかけは、宇摩の和紙生産の飛躍的な成長にあると思うのです。資料を見てください。
 愛媛県の和紙生産の移り変わりについての統計資料ですが、明治7年(1874年)の宇摩の和紙生産高は、南予の喜多宇和(きたうわ)郡よりはるかに少ないことがお分かりでしょう。ところが、明治18年になりますと、これが逆転いたします。さらに明治27年になりますと、県下で飛び抜けた産地に成長しています。これまでは、和紙の原料は主にコウゾでしたが、このころになりますと、原料の不足が心配の種になりました。以前からミツマタも注目されていましたが、まだ漂白(紙を白くする)技術が不十分でした。しかし、やがてそれが解決されました。
 それと同時に、山間部でミツマタの栽培が広がりました。焼畑をして、ソバや大豆、アワなどを二作した後に、ミツマタを栽培しました。ところが、ミツマタは輪作に不向きの植物です。従って、新しく焼畑をして栽培しなければなりませんでした。明治27、28年(1894、95年)には、一度に3町歩(3ha)、4町歩も焼畑の開墾届けが出ています。それと相前後して、宇摩の和紙の生産高は飛躍的に伸びています。
 例えば、明治35年と明治37年の生産高を比較してみますと、2年間で約2倍に跳ね上がっているのです。この宇摩の勢いが、それぞれの産地にもおよびます。ミツマタを求めて原料業者が山間部へ入ります。宇摩地方の業者は、宇摩の近くの徳島県や高知県の山地にもミツマタを求めました。ミツマタを栽培した後は、スギの植林です。山の人たちはミツマタでもうけて、またスギでもうけました。このブームは、戦後にも起こりました。しかし、かつての焼畑は、ミツマタの栽培と昭和30年(1955年)ころより始まった過疎化のため、その姿が見られなくなりました。