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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇鬼北文楽の由来

 では、本題に入りまして、まず鬼北文楽のそもそもの由来についてです。
 江戸時代徳川将軍の御前公演でその美技を称賛され御墨付を賜ったといわれる上村平太夫(かみむらへいだゆう)一座が、明治後期の大雪の年に泉村(広見町)に興業にきたのですが、あまりの大雪のために興業が打てずに、次の興業地である坂石(さかいし)(野村町)に向かいました。ところがここでも興業を打てなくて、経済的に行き詰まり、ついに人形・衣装・諸道具を、坂石の旧家三瀬家に売って解散したのです。そのことを聞いた泉村の毛利善穂さんは、昭和10年(1935年)3月に、その人形・衣装等を礼金1,200円(米1俵が6円30銭の時代)でそっくりそのまま譲り受け、自らを毛利泉大夫と名乗り、地方同好者の協力によって、泉文楽一座を設立したのが鬼北文楽の始まりです。太平洋戦争中は一時途絶えていたのですが、戦後の娯楽のない時代に再び盛んとなり、昭和27年(1952年)11月には、南予郷土芸能祭に「泉文楽」として出演しております。昭和28年4月には、名前を「鬼北文楽」と改めまして文楽振興会を結成し、その年の11月には、松山市にあった県民館で鬼北文楽として公演をするのですが、これが最後の上演となりました。その後、文楽の人気は廃れて、行う者もいなくなり、昭和34年(1959年)3月には、毛利さんの持つ39体の人形頭・衣装道具一式が「鬼北文楽」として県指定有形民俗文化財となるのです。
 昭和37年以後のことにつきましては、私の思い出とともにお話したいと思います。