データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇鬼北の風土と郷土芸能

堀内
 私のほうに課せられているテーマは、鬼北地方の文化的風土、鬼北の文学だとか、郷土芸能と文学とのかかわりということですので、これはかなり難しいテーマなのですが、私なりのお話をしたいと思います。
 最初に、先程お話しました芝不器男の俳句を一つ紹介させていただきます。芝不器男が大正14年(1925年)に福岡から出ていた『天の川』という俳句の雑誌に発表した「下萌(したもえ)のいたく踏まれて御開帳(ごかいちょう)」という句です。この「いたく」というのは、「痛い」とかいう意味ではなくて、たぶん「ひどく」という意味だと思うのです。お寺の境内の下萌が、人込みでひどく踏まれて、御開帳があると。不器男を育んだ鬼北の文学的風土ということに関して、私はこの句に大変注目しています。
 と言うのは、この時芝不器男はまだ、父親が孔子の論語(子日ク、君子ハ器ナラズ[一つの用に滞らざる意])からつけたという本名を俳号として使っていません。孔子の全人教育の理想を託した命名ですが、その不器男のごろ合わせで「不狂」という俳号を使っているのです。これはなんだか、眠狂四郎みたいで、非常に時代がかって古いと思うでしょう。不器男の先生で『天の川』のこの句の選をした吉岡禅寺洞(よしおかぜんじどう)が、「この俳号はいかにもまずい。本名の不器男の方がおもしろい。」ということを、葉書でアドバイスをしまして、不器男はそれに従って、その後、本名の芝不器男で俳句をつくり続けることになるのです。
 それはともかくとして、禅寺洞がとった不器男のこの句には、近世的感覚というものがみなぎっていると思うのです。あるいは近世と言わず、高度成長以前の1950年代末あたりまでの日本の基層文化というものが湛(たた)えられていると思うのです。盛り場だとかお祭り、縁日の見せ物だとか、こういう開帳ということに関しては、近世からずっと続いた、先程も浅香先生のお話にありました、「祝祭」というものがあったと思うのです。
 お寺だとか神社の境内などに小屋掛けをした見せ物には、例えば幻術だとか手品、軽業、刀の刃渡り、玉乗りだとか、女相撲とか、曲独楽(こま)など「身体性」に関わるパフォーマンスというものがありました。
 それからさらに熊女だとか、鳥娘だとか、狐娘だとか、蛇小僧とか、珍獣奇獣の曲芸だとか、それから猿の芝居だとかには、「異人性」、「異類性」、「異界性」、そういうものに満ちた空間がひしめいていたと思います。
 その他にも、ビードロ細工だとか、ギヤマン細工だとか、菊細工だとか、それから張り子細工の生人形などの巧妙な仕掛けも待ち受けている。こうした雑踏のエネルギー、活力につながるものとして、お寺の開帳などがあったわけです。皆さんも御存じだと思うのですけれども、開帳というのは、お寺さんの本尊・秘仏などを納めている厨子(ずし)の帳(とばり)を開いて拝観させるということです。これは中世以来ずっと続けて行われてきたものでして、その縁を結ぶ結縁のための参詣なのですけれども、これが聖なる見せ物として人々に意識され、位置づけられるようになったのは、江戸時代になってからなのです。ですからまさに開帳というのは、近世的な光景、風景なのです。この帳を開けば、そこに群れる人々がお賽銭(さいせん)をあげて、奉納金を納める。そしてお寺の境内の下萌が、ひどく踏みしだかれる。そういう聖なる「浄化」ということが、繰り広げられる一つの祝祭の叙景の句だったわけです。
 この句は不器男のごく初期の作品ですけれども、不器男が自分の俳句の出発点近くで、こういうふうな静けさと喧騒(けんそう)、賑(にぎ)やかさが交錯する時間や空間にまなざしを届かせていたという事実は、大変注目されていいのではないかと私は思うのです。
 これには、宇和島藩を代表する桑折宗臣(こおりむねしげ)(宇和島藩初代藩主伊達秀宗(だてひでむね)の4男)という俳人からの長い俳句的な伝統があるわけです。そういう藩政時代以来の俳諧的世界を含めた、非常にゆるやかな時の循環が、この不器男の「下萌のいたく踏まれて御開帳」という句の中には込められていると思います。
 ひょっとしてこの句そのものは、不器男は仙台で瑞雲寺(ずいうんじ)というお寺さんに下宿していましたから、仙台でよんだ句かもしれません。けれども、こうしたことに滑り込むと言うか、自分の気持ちを傾ける不器男という青年の感受性というものには、注意しなければならないのではないかなと思うのです。
 これは、視野を広げていったら近世からの歴史の地層の部分を底流する大衆意識の「心性」で、心の根にひそむものではないかと思うわけです。
 それでその鬼北の文楽などと多少結びつくのですが、能だとか狂言や人形浄瑠璃といった演劇は、非常に広い意味での見せ物としてとらえることができるのです。そういう能、狂言、人形浄瑠璃などの演劇を、歴史的に把握するためには、先程申し上げましたような、女相撲だとか、曲独楽だとかいう狭い意味の見せ物との関係を明らかにする必要があると言われています。そういうもののエネルギーにもつながっているということで、見せ物の文化というのは、日本の近代文化の母胎になるのではないかなと思います。
 例えば、正岡子規が明治になってから排撃した、江戸末期の月並み俳諧の俗調というのは、どういうものかというと、どこそこの神社に俳額を掲げるとか、あるいは、どこそこの寺院に句入りの行灯(あんどん)を奉納するとか、そういう名目で企画された見せ物興行に連なっていくものなのです。
 「下萌のいたく踏まれて御開帳」という句には、芝不器男という青年が深く体や心に湛えていた、そういう伝統的な心情、心意というのを見ることができると思うのです。ですから不器男の俳句を基層の奥深いところで支えていたのは、そういう近世の庶民文化、ひいては、鬼北地方の文化ということが言えると思うのです。
 先程も近代化の話が浅香先生からありましたが、江戸時代から明治初めにかけては、神社やお寺の境内での祭礼というのが、皆のくらしに活力を与えるものだったわけですけれども、明治元年(1868年)に神仏分離の太政官通達(だじょうかんつうたつ)というのが出されて、それにピリオドを打つことになるのです。たとえば東京の湯島天神の境内では、芝居だとか見せ物に、「賤(いや)しい」という烙印が押されるわけなのです。そして、そういうものを追放して、近代的な都市公園にしようとしたのです。近代的な公園にして、ヨーロッパ諸国の都市構想にならうわけです。結局、そういうことで江戸時代の庶民の遺制(いせい)というものを廃(すた)れさそうとしたのです。それは鹿鳴館(ろくめいかん)の思想の延長なのです。
 しかし、国がそういうことをやっても、聖と賤、この見せ物の雑踏のエネルギー、活力というのは、そう簡単にはなくならず、文明開化の時代をくぐり抜けて、生き延びるわけです。見せ物とか開帳をめぐる、庶民の心意は、近代化ということの前では、公には貶(おとし)められたけれども、実際には、ずっと生き延びていくのです。
 芝不器男には、ごく自然な感性として、そういうものが備わっていたのです。その俳句の根にある遊芸的なもの、風土の奥深く潜む活力が不器男の源泉になっているのです。ただ、不器男の俳句はそれを基層にしてはいますが、近代的なものなのです。たとえば光学機械であるカメラのレンズに人間の血が通ったような視線というものがあって、非常に近代性に支えられた俳句なのですが、その奥深いところには、今、私が申し上げたような鬼北の風土というものがあると思います。以上、鬼北の風土と郷土芸能ということで、お話を申し上げました。