データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇私の水軍研究

森本
 失礼いたします。
 今日は、水軍そのものの話というよりも、水軍研究の方法論と言いますか、水軍研究にどういう魅力があるかとか、また、私個人の体験を交えて、どのように水軍研究を始めて現在に至っているかとか、さらに、水軍研究についてはいろいろ問題点がありますが、私なりに考えている打開策などをお話してみたいと思っております。
 ところで、鉄血宰相(てっけつさいしょう)と言われたドイツのビスマルク、有名な政治家ですが、この人が、「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ。」というようなことを言っております。我々人間は、時代とそれから装いは違いますけれども、過去から現在に至るまで、だいたい同じような生活のパターンを繰り返しているわけであります。だから、そういう人類の歴史が記録として残されておりますから、そういう記録を参考にしながら、現在に生きる我々が間違いのないような人生、あるいは政治を行うために、いろいろ歴史を読んで、それに学ぶことが大切であります。しかし、考えてみると、私たちは凡人でありますから、歴史を知っておっても、その歴史に学ぶというようなことはなかなかできない。やはり体験を重ね、そして失敗を繰り返し、その失敗の中から人生の教訓を学びとるというのが実情ではないでしょうか。特に日本の戦後は、敗戦の後遺症というところからでしょうが、体験にだけ学んで、本当に歴史には学んでいないように思います。その結果、日本民族の精神とか魂というものが失われてしまっている。確かに悪い面もありましたけれども、明治から大正、昭和にかけての日本は、素晴らしい民族の発展をなし遂げたわけであります。そういった意味で、この愛媛県が、愛媛学という名前で、身近なところの歴史からいろいろな史実を学びとって、これを今後の生活に役立てたいという試みは、非常に敬服すべきことだと私は思っております。
 私は、小さい時から本を読むことが好きでありまして、特に歴史物を読み、英雄伝説に胸をときめかせて、それに触発されたわけであります。わたしの郷里は岩城(いわぎ)村(愛媛県越智郡)ですが、村の古老たちから、水軍の武将の活躍する昔話を聞いては、胸躍らせたこともありました。
 しかし、学問的な意味で水軍の研究を始めたのは、私が九州大学に入ってからのことです。私は法学部でしたが、友人に文学部の史学科に籍を置いているものがおり、そこを訪ねて行くと、私がどうも瀬戸内の水軍の子孫ではないかということで、「長沼文庫」という研究室に案内されたわけであります。当時九州大学には、「海賊先生」と言われるぐらい水軍の研究でよく知られた長沼賢海という先生がおられ、この先生が広島高等師範学校の時代に島々を歩いて集められた資料を、コピーですけれども、資料室にたくさん保管して、学生の研究に役立てておられたんです。これを、みんなが「長沼文庫」とよんでいたのですが、そこへ行って拝見しますと、私の郷里の岩城島とか、御当地宮窪の能島(のしま)、それから因島(いんのしま)、大三島、来島(くるしま)といったところの水軍のことがたくさん書いてあるのです。非常にうれしくなりまして、ノートに写すために当分そこへ通ったことがありました。
 その時は、そのままで終わったわけでありますが、高等学校に職を奉じて、何年かして、広島県高田郡吉田町の吉田高等学校に参りました。そこは今(平成9年)、NHKが大河ドラマで放映しております、毛利元就(もとなり)のふるさとなのです。そこで毛利元就に魅せられて、爾来(じらい)、毛利元就を研究して40年近くになります。と同時に、この時に、岩城村の教育長さんから、「村の歴史を研究して歴史書を作りたいんだ。だからひとつ、あなたが専門委員になってやってくれ。」ということで、岩城村史の編纂(へんさん)を、私が編集長としてやり始めたわけです。
 御存じかもしれませんが、岩城村は伊予松山藩の海の本陣があったところで、村方(むらかた)文書がたくさんございます。この村方文書を解読して、本にまとめるのが私の大きな仕事だったのですが、とりあえず古代から現在までの岩城島の歴史をまとめようということで、作業を始めますと、一番重要なウエイトを占めておったのが村上水軍だったのですね。実は岩城村にも、村上水軍の亀山城、古城、新城という3つの城跡がありまして、そういう城跡から、村上水軍とは切っても切れない関係にあるということで、水軍の研究を始めました。私が一番最初に読んだ書物は、大三島の松岡進という先生が書かれた、大三島を中心とする『芸予叢島(げいよそうとう)史』という本で、感激しました。
 御当地宮窪では、昭和14年(1939年)、まだ宮窪村と呼ばれていた時代に、鵜久森経峰という人が、『村上水軍と能島城趾』という書物を出されております。これは資料集のようなもので、学問的に立派な本です。また、因島では、松浦儀作という人が因島の市役所から、『因島村上と青影城趾』という本を出しておられるし、大三島では三島安精さんが、やはり水軍に関する『海賊大将軍』を出しておられる。さらに、来島の水軍については、森光繁という人が、『伊予海賊物語』、『来島海峡』というような書物を出しておられた。そういう本を次々と読みました。
 愛媛県全体としては、郷土史研究グループの伊予史談会が、大正4年(1915年)から『伊予史談』という冊子を毎年出しているのですが、その中に、景浦直孝(雅桃)という先生が、『伊予海賊沿革略史』というのを連載されておったのです。これに触発されるところが大きかったですね。この景浦先生は、大正12年(1923年)に『伊予史精義』という立派な書物を書かれ、その中でも水軍のことが紹介されている。その景浦先生の息子さんが景浦勉という先生で、この人が『伊予海賊発達史』という書物を書いておられる。この景浦勉さんは、伊予の歴史研究の重鎮で、愛媛県史の編纂委員長になって活躍された方ですね。
 そういうことで、私はそういう書物を読みながら研究したのです。全国的に見れば、先程御紹介しました長沼賢海先生が、昭和30年(1955年)ですが、『日本の海賊』という本を出され、昭和40年(1965年)になりますと、民俗学者の宮本常一という先生が『瀬戸内海の研究』という本を書かれた。この方は、周防(すおう)大島、つまり屋代(やしろ)島(山口県)の出身です。能島の村上氏は、秀吉の海賊禁止令が出ると、最後は周防大島に土着しますので、そこにたくさんの水軍に関する資料がある。その資料に基づいて、宮本さんは、『瀬戸内海の研究』をまとめられ、その中に水軍のことがいろいろ紹介されているわけです。
 しかし、宮本さんは、江戸時代の編纂物やこれまでやられて来た水軍の研究の方向とは違っていました。村上氏が、村上天皇の子孫であるとか、清和源氏の清和天皇の子孫であるとかいう系図ですね、そういうことは真っ向から否定されて、「村上氏は、村君、村の頭、これが村上氏のルーツなんだ。村君が村上と変わって、村上氏になり、それがだんだんと頭角を現して、村上水軍家の始祖になったんだ。」というようなことを書いています。私は学生時代にはこれに共鳴しましたが、今考えてみるとずいぶんおかしい話で、今は同調しておりません。
 その後も、因島市では『因島市史』が昭和43年(1968年)にできますし、その1年前には広島大学の先生であった河合正治さんが『瀬戸内海の歴史』を書かれ、隣の吉海町では矢野勝明先生が中心となって『吉海町誌』を、また、大三島の松岡さんもさらに『瀬戸内水軍史』を書かれている。因島では中島忠由という先生が『因島地方一万年史』を出されるというように、次から次へと新しい書物が出版されたのです。